Ivory_07
雨は降り続く。ぽつぽつとまばらだったリズムは次第に纏まりを見せ、絹糸のようにしなやかに街に降り注いでいた。通りに面した大きなガラス窓には、無数の水滴と雫の軌跡たちが、ひっきりなしに形を変えて流れていく。私たちは手を繋いだまま、その窓際のカウンター席に寄った。雨に降られた客で賑わう店内ではあったけれど、立ち飲みスペースは比較的空いていたのだ。それに『手を繋いだまま』であれば此方の方が都合が良い。
不便なはずなのに決して離さないその手を握る。左手に持ったカップが、僅かに揺れた。
湿気た空気を中和するように、穏やかなジャズの音楽が店内に響き渡っていた。やはり、よく同級生と立ち寄るファストフード店とは違う、大人な雰囲気が滞留している。豆を挽くほろ苦い香り。大きなガラス窓の向こうにはしとやかに降り続ける雨、次第に咲き始めた傘の華。喧噪とはほど遠い、隔絶された世界のようだった。
植え込みの花壇がよく見えるところに、私と羽風先輩は立った。お互い飲み物を置いて、手を繋いだまま覚束ない調子で湯気の燻るカップのハンドルに指を掛ける。
そういえば。
ほんの少し雨を吸ったダッフルコートを脱ごうと思い、手を止めた。手を繋いでいるから、脱げるとは到底思えなかったからだ。先輩を見れば彼は雨に濡れて濃く色付いた上着はそのまま、カップに指を掛けてコーヒーを啜っていた。きりまんじぇろだ。先輩の飲み物を思い出しながら、再度ハンドルに指を掛ける。コーヒーの表面を覆う白く泡立つミルクの泡が、甘い匂いを放っている。
「随分と濡れちゃった?」
「いえ、まあ」
カップに口を付ける。細かな泡がまるで海岸に這い出た波の先のように砕け、コーヒーの苦い味が舌の上に流れ込む。慌てて口を離せば、先輩は不思議そうに目を瞬かせる。そうして「熱かった?」と尋ねるので、私は黙ってカップを机の上に置いた。
「……カプチーノって、もしかして結構苦かったりします?」
「え、どうだろう。その店によって違うと思うけど……」
一瞬考え込んだ先輩はすぐに頬を緩め「苦かった?」と囁くように言葉を落とした。私は唇を尖らせ「苦くないです」ともう一口啜る。耐えきれない苦さでは無いけれど、やはり少しばかり、苦い。
先輩はそんな私を微笑ましそうに見つめながら「口元、泡、ついてるよ」と笑う。どこだろうと探る前に、紙ナフキンで丁寧に拭き取られてしまった。器用に片手で四つ折りにして「良いもの見ちゃった」と彼は独りごちる。悔しくなってもう一口啜った。やっぱり、ほんのちょっと、苦い。
雨脚は次第に強くなっていく。厚いガラスで隔たれたこの場所は聞き心地のよいジャズの音楽しか流れない。しかしだんだんと白んでいく外の景色。灰がかっていた雲は今や墨を滲ませたように重い。足早に去って行く人たちが、まるでテレビの向こう側みたいだ。雨で隔絶されたのは、こちらか、向こうか。
ぼんやりと外を眺めていたら、先輩が指先に力を込めた。素直に私も握り返せば、ふふ、と嬉しそうな吐息混じりの声が降ってきた。
「なんですか?」
「いや、さっき初めて握り返してくれたでしょ?」
「……いや、まあ、それは」
「嬉しかったから、思い出しちゃった」
これが、さいごだから。
先輩の言葉を思い出す。ここで追求したらどうなるのだろう。教えてくれるのだろうか。楽しそうに笑う横顔が曇るのが怖くて、何も言えずに唇を結ぶ。そのままハンドルに指を掛けてカップを持ち上げる。
「……先輩が、今日はずっと握ってて欲しいって言うから」
「断られるかと思ってたんだけどね?」
「……別に、断るほどのことじゃないですし」
にがい、にがい。甘いと思って注文したはずなのに、泡をすり抜けたコーヒーは随分と苦い。先輩はソーサーの上にカップを置いて「そういうもの?」と笑う。黒く、底の見えない、私のそれよりもずっと苦いものを飲んで平然と笑う。先輩の言動だとか、頑なに解かない指先だとか、大人ぶった服装や飲み物が、全て合わさって彼と重なる。
隣に居るのに、なぜだか随分と遠く感じた。いや、違う。今はまだ隣に居るけれど、なぜだか『遠くに行くのだろうな』なんて予感めいたものを感じさせる。嫌だと思った。先輩がこの春に卒業してどこかへ巣立つのは分かってはいるけれど、なぜだか今、それがとてもつらい。
どれか一つでも均衡を崩せば、と指の力を抜けば、僅かに指先が離れる。先輩は黙って、その手を繋ぎ直す。先ほどまでの指先を掴むようなそれではなく――指と指をしかりと絡ませた、それに。
「今日だけは……ダメかな?」
雨に濡れた手袋が、肌に張り付く。余計体温が近くなった気がして、私は先輩を見上げた。先輩は穏やかに微笑みながらこちらを見下ろしている。急に寂しくなって、喉を絞り出すような声で私は言った。「……どこかへ、行きませんか?」
「これから?」
驚いたように彼の瞳が瞬く。言葉を用意していない私はただただ先輩を見上げ、先輩はそんな私を見下ろして、察したように微笑んだ。「ダメだよ」
「――ちゃんとそのときになったら言うけど、将来何するか決めちゃったんだよね、俺。だから今日は最後に遊ぼうとおもって。他の女の子でもいいけど、折角なら君とがいいと思って」
先輩は強く手を握る。
「最後は、きみがいいと思って」
制服を着込んだ私であれば、化粧もしなくイヤリングを付けていない私であれば、二つ返事で応援をしていたはずだ。思い浮かぶ言葉はあるけど喉に詰まって出てこない。雨に濡れたブーティが、重く、鈍い。
「(さいごなんて、いわないで)」
何も言わずにカプチーノを啜る。苦い。苦い。境界が崩れ、白んだコーヒーが私の淀んだ顔を映し出していた。泣くものか、泣くものか。強く手を握れば「ごめんね」と彼が手を握る。
悲しいことなんてあるものか。風のようにつかめなかった「夢ノ咲の羽風薫」がちゃんと「アイドルとしての羽風薫」として立とうとしているのだ。こんなに嬉しいことはないし、この一年間、それを願っていたじゃないか。頑張りましょうね、と、応援してます、と言えばいいのに、大事なときにこの唇は動いてくれない。
雨は降り続いている。雫のヴェールで隔たれたこの喫茶店が永遠に続けばいいのに。ずっと、帰れなきゃいいのに。