Ivory_06

 海岸からほど近い喫茶店は、大通りから一本離れた路地に建っていた。赤煉瓦で彩られた外観。カウンター席が見える大きなガラス戸の下には、可愛らしい植木鉢が並んでいる。
 それを横目に、私たちは軒下へと滑り込んだ。小雨だと思っていたけれど、今や雨粒も随分と大きい。紅のオーニングテントに跳ねる雫の音は随分と鈍く、荒い息を整えている最中にも、前髪からぽつりぽつりと雨水が垂れ落ちる。

「ああ、濡れちゃったね」

 先輩はそう言うと、軽く私の前髪を指先で擦ってくれた。その濡れた皮の感触にぶるりと身を震わせれば「寒いよね、とりあえず入ろっか」と彼は苦笑を浮かべて、扉に手を掛けた。私も首を縦に振り、彼の隣に並ぶ。
 扉を開けば陽気なカウベルが響き渡った。暖められた店内の空気が私の頬を擽り、そのまま外へと流れ出ていく。冷えて張った皮膚が緩んでいくのが分かる。今度は寒暖差に身を震わせれば、先輩は「暖かいね」と口元を緩めた。「そうですね」と私は言い、そのまま真っ直ぐレジへと足を運んでいく。
 こんなところにお店があるなんて、知らなかった。
 おそらく知ってても入らないだろう。上品なジャズがかかる店内の客層は、私たちがよく行くファミレスだとかファストフード店のそれよりも随分と高い。木で出来たバーカウンター。天井や壁に吊り下がるスズランの形を模したランプが、橙色の柔らかな光を放っている。耳慣れた賑やかな笑い声は聞こえない。BGMと調和する細やかな会話と、時折聞こえる食器の音だけが、この店内に広がっている。
 あまりに慣れないその空気に弾かれるような気がして、繋いだ手に力を込めた。先輩が振り返る。そして強ばる私の顔を見たのだろう。力を抜いたように笑うと「大丈夫大丈夫」と繰り返し、手を握り返してくれた。不思議とその一言だけで許された気分になり、それでも先輩の背に隠れるようにしてレジへと向かった。

「ね、何が飲みたい? 折角だし暖かいもの飲みたいよね」

 丁度空いている時間だったらしい。いくつかあるレジの前には客がおらず、先輩はレジ前のメニューを取り上げて私に見せてくれた。しかしながら喫茶店に慣れているわけではない。(行くとしても大体、学院近くの喫茶店くらいだ)見慣れない単語が並ぶそのメニューに気圧されてしまう。

「俺はどれにしようかなあ」
「随分いろんな種類があるんですね」
「コーヒーに凝ってる店らしいからね」

 先輩は随分と楽しそうだ。そんな彼の手前、どれが美味しいですか? なんて聞くのも随分と恥ずかしくて――見たことのある、おそらく苦くない飲み物を探す。コーヒーが苦手な人向けにジュースや紅茶なども取り揃えているようだけれど……コーヒーに凝っている店ならば、おそらく先輩もコーヒーを頼むだろうし……。
 知らない単語の渦の中、ぐるぐると考え込んだ末に、見たことのある(そしておそらく苦くないであろう)「カプチーノを」と、頼む。レジのお姉さんは「カプチーノですね」と繰り返し、レジのボタンを押す。先輩はメニューを返しながら「俺はじゃあキリマンジェロで」と口にする。きりまんじぇろ。先輩の単語をレジのお姉さんの声に合わせて、心の中で繰り返す。こっそりと「ブラックですか」と尋ねれば先輩は笑って「そうだよ」と応え、楽しそうに繋いだ手を揺らした。

「あまりコーヒー飲まない?」
「缶コーヒーなら……」
「そっか」

 金額を告げられ、慌てて財布を出そうとした矢先に先輩は携帯で決済を終わらせてしまった。「あっ」と言葉を漏らせば「今日はデートだから」と彼は笑う。

「じ、自分の分はちゃんと払います」
「だーめ。ほら、今日はずっと俺のわがままに付き合って貰っちゃってるでしょ」
「そうですけど……」

 受け取り口まで歩き出す先輩について、私も足を運ぶ。繋ぎっぱなしの手。先輩は時たま嬉しそうに握り返しながら「だから、いいの」と言葉を紡ぎ、微笑む。

「……じゃあ次は、私が奢りますね」

 次があるって期待して良いんだ。そんな軽口が返ってくると思っていたのに、先輩は私の言葉にただただ微笑むだけだった。穏やかなジャズの音色に混じり、先ほどの彼の「さいご」がリフレインする。何度も、何度も。

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