Ivory_02
その日の空は生憎の曇りで、今にも泣き出しそうな重苦しい灰色の雲と、隙間に水溜まりのような青空が見え隠れしていた。降水確率は五十パーセントという優柔不断な数値を叩きだしており、暫く悩んだあげく、鞄の半分を占める折りたたみ傘を出掛ける前に布団の上へと放り投げてきてしまった。なにせ女の子の鞄は小さいのだ。学院で使う色気も何も無い鞄であれば迷うこと無く連れ出していたけれど、パステルカラーをあしらった小さな鞄には少々お荷物になりすぎる。
『午後一時に、駅前で』
約束はそれと『もう一つ』だけ。何をしようだとか、どこへ行こうだとか、そんなことは何も知らされていなかった。何をするんだろう、と歩きながら髪をかき上げれば、付けてきたイヤリングが指先に触れる。一応デート(という体!)だし……と付けてきたけれど、着飾っているのがまざまざと分かりほんの少し恥ずかしい。それにイヤリングが埋まるのも嫌だから、マフラーも置いてきてしまった。季節に似合わぬ薄着姿を見かねた母親が「せめてコートはちゃんと着て行きなさい!」なんて言うものだから、折角の私服は全て素っ気ないダッフルコートの中に隠れてしまっている。
「(なんだか)」
ヒールが石畳を叩く。指先に触れる唇は、予想以上に潤いすぎている気がした。なんだか、私、浮かれている? 嵐ちゃんから教わった簡単なメイク。瀬名先輩から叩き込まれたヘアアイロン術。一人でやるとどれも上手くいかなくて、結局三回もお風呂を往復してしまった。せめてリップはと付けてきたけれど、違和感しか覚えない。『デート』なんて行為は私にとっては希有なものであるけれど、羽風先輩にとっては日常に溶け込んだものでしかないというのに。
きっとなにか特別な意味を持たせたくて、少々、浮かれてしまったのだ。
だってきっと、こんな機会ってきっともう、来やしない。彼がまた誘ってくれるとは限らないし、誘われたとしても、私の強情な心が勝ってしまうかもしれない。だから少し、今日だけは、浮かれてしまうことを許してしまおう。そう思いつつも、街中の大きなガラス窓に映る自分の姿を見て、私はそそくさと視線を逸らす。
一時前に到着したと言うのに、先輩はすでに駅前で待っていた。帽子を深く被って、伊達眼鏡をして。随分と大人びた服装に一瞬大学生と思い通り過ぎれば「ちょ、ちょっと待って」と随分聞き馴染んだ声とともに腕をとられた。
「ええ、素通りする?」
羽風先輩はそう言って笑う。しかし私は手首を掴まれたまま、ぱちくりと目を瞬かせることしか出来なかった。だって普段と――あまりに格好が違う。私服の彼とは何度か会ったことはあるけれど――あくまでその格好は『学院の生徒としての羽風薫』の私服だった。それもそれで大人っぽくて格好よかったけれど――そうか、デートの時はこうも違うものなのか。
ただただ目を瞬かせる私に「……え、俺って分かるよね?」と不安げに羽風先輩の声が揺れる。ようやく私は唇を動かすことを思い出して「……先輩?」と紡いだ。彼の顔が安心で緩む。「そう、先輩です」といたずらに彼は笑う。
「見違えちゃった?」
「ええ……その、随分と、大人っぽくて」
「ふふん、君がオッケーくれるなんて珍しいからね。頑張っちゃった。……でもさ、きみも随分と、可愛いね? そのイヤリング似合ってるよ。冬っぽいし、きみっぽい……ああ、リップも塗ってる? 嬉しいなあ。そんなに楽しみにしてくれたの?」
「……一応、と思いまして」
ことごとく言い当てられて、随分と恥ずかしくなる。視線を泳がせば先輩は心許なく垂れ下がった私の手のひらに自らの手を重ね、握りこんだ。咄嗟に彼を見上げれば、羽風先輩はやはり、嬉しそうに笑っている。
『午後一時に、駅前で』
『お願いがあるんだけど、デート中はずっと手を握っててもいいかな』
握り返す勇気もなくて目を伏せれば、解けないように先輩はしかりと指先に力を入れた。手袋をしているのに、お互いの熱が滲むようでどこか恥ずかしい。本当ならこんなことはだめなのに。早鐘のようになる心臓の音が、理性をかき消していく。「せんぱい」と声を絞り出せば「いいよ」と彼。
「俺がしたいだけだから、君は、ただ俺に握られてて」
そうして彼は歩き出す。親子連れ、カップル、友人同士。その人の波に埋もれていく。半歩後ろを歩きながら、見慣れないジャケットの背中を見つめた。どうやら電車には乗らないらしい。上り線のアナウンスが、背中越しに遠くに聞こえる。
「……今日の先輩、大人っぽくて、格好良いです」
小さく呟いた言葉。僅かに彼の歩調が乱れる。握られた指先に力が込められて、半歩遅れた私を待つように彼は僅かに足を止めた。
「そういうのさ、俺の顔見て言って欲しいんだけど」
帽子の鍔の影になった彼の瞳が、真っ直ぐ結ばれていたはずの彼の口元が、僅かに緩む。先ほどよりも歩調を緩めた先輩はまるで内緒話をするように「どういうところが格好良い?」と尋ねるので「調子に乗らないでください」とようやく調子を取り戻した私の唇が、軽口を叩き、笑った。