Ivory_01
いつものように笑った調子で「デートしようよ」と言う彼であれば、私だっていつものように「そうですね、レッスンに行きましょう」とか「ガーデンテラスまでで良いですか? 用事があるので」だとか、可愛げのない言葉を投げつけたに決まっている。だけどその日先輩は、なにかを諦めたかのように寂しそうに笑っていた。はたはたと首に巻いたマフラーが揺れて、手袋とカーディガンの隙間に吹き込む風が、肌を冷やしていく、冬の話だ。
校門の真ん前で会った私たちはバス停までのんびりと歩いていて、周りには同じような空色のブレザーの集団が真っ直ぐバス停の方へと歩いていた。羽風先輩は「寒いね」とか「冬が来るね」とかとりとめのない言葉とともに、私の隣で白い息を吐き出していた。夏の空より遠く透った空気は風でそれを攫い、夜の街へと拡散していく。儚く消えていく靄を見つめながら「そうですね」と「冬、もう来てると思いますけど」なんて私も白く空気を濁らせる。
露わになった鼻は風に煽られて冷たく、思わずひとつ、くしゃみを零してしまった。途端に染みこむ冬の寒さにぶるりと身を震わせれば、先輩が「ちょっと」と言い、私の解けかけたマフラーに手を掛ける。自然と私の足は止まり、羽風先輩の足も止まる。そうして歩みを止めた私たちを学院の生徒たちは追い越すけれど、視線で撫でられたりだとか、茶化されたりしないのはおそらく相手が根っからの女好きというレッテルを貼られた羽風先輩だからだろう。手慣れた所作でマフラーを巻き直す先輩。冬の空気に、彼の香水が香る。
「ああほら、髪の毛食べちゃってる」
質の良い、革の手袋が私の頬を撫でた。自分よりも大きな手のひらと、その慣れた所作にどきりとしたけれど、先輩は気がつかなかったらしい。「髪が長いのも大変だよね」と言葉を落とし、彼はゆっくりと歩き出した。私も追いかけるように、歩き出す。
「風が強いと、俺もたまになるんだけどさ」
マフラーから飛び出した先輩の金の髪が、夜風に揺れる。白い息と彼の髪の毛が、街灯に照らされて僅かに光る。彼の冬の寒さに辟易した横顔が、マフラーに埋まった。長い睫毛がぱちりと瞬き、毛糸の隙間から、白く息が漏れる。
「結構鬱陶しいよね。朔間さんとか、どうしてるんだろう」
「ライブの時は大変ですよね」
「ほんとに」
そう、そんなとりとめの無い会話をしていた。思い返しても記憶に残らないような、眠いときに聞けば欠伸を零してしまいそうな、そんな内容のない会話。冬の風が滑る肌はいつもよりも冷たくて、クリスマスもお正月も通り過ぎた商店街は電飾もなにもなく、素っ気なくシャッターを下ろしていて、随分と寒々しい風景だった。
もう少ししたらバレンタインで彩られる町並み。バレンタインか。愛の使者たる彼を見つめれば、羽風先輩は相変わらず口元をマフラーに埋めながら「卒業したら切っちゃいたいって、相談しようかな」とぽそり、言葉を落とした。
「相談?」
「え? ……ああ、こっちの話」
言葉を濁らせ、彼は徐々に歩調を緩めていく。バス停は目と鼻の先だ。私は歩いて、彼はバスに乗って家へと帰る。完全下校も近い時間、バス停前は長蛇の列が出来ていて、今から並ばなければ次の便にはあぶれてしまうかもしれない。
そんな最中、彼は足を止めた。か細い息を吐きながら、じっと足下を見つめて。レンガ調の石畳には、ぼやけた彼の影しか落ちることはない。しかし羽風先輩は神妙な面持ちで視線を落とし、立ち止まっている。
「羽風先輩?」
彼を追い越し、数歩前を歩いてしまった私は、慌てて先輩の元に歩み寄る。遠くからエンジン音。見慣れたバスがゆっくりと、バス停へと滑り込む。周りを歩く生徒たちは歩調を上げて、止まる私たちを追い越し列の最後尾へと向かっていく。「バス、来ちゃいますよ」
「あのさ」
羽風先輩がようやく口を開いた。重たい音を立てながら、ほぼほぼ空っぽのバスが扉を開く。飲み込まれるように列に並んだ大量の生徒たちが乗り込み、乗り遅れるものかと走ってくる生徒たちが私たちを追い抜いていく。はためく水色のブレザーが視界を横切る。「行っちゃう」と零す私の手首を、先輩が細やかに掴んだ。
「今度の日曜、デートしようよ」
聞き慣れた誘い文句。灰色に落ちた彼の瞳が揺れる。光彩の奥の奥に宿るなにかがぼうぼうと燃えているような気がして、思わず私は唇を結んだ。
今となって思う。
これは私と先輩の、小さな逃避行のお話だった。