くうねるところにすむところ_06

 どうしよう。全くもって覚えが無い。いや、なんとなく。なんとなく記憶の片隅に淡く、そんなことを言ってしまったような、そんな記憶の薄い膜のようなものは確かにあった。しかしその輪郭を追い求めれば追い求めるほどその膜は薄く透き通り、すん、と脳内から消えてしまう。
「(寂しい、なんて)」
 言ったのか、言ってないのか。脳内で何度もラリーをさせた言葉を反復しながらアドニスくんのメッセージに目を落とす。
 もしかしたらメッセージ自体朝見た夢じゃないの? ……なんて私の都合の良い予想は空しく、底にはきっかりと二通、彼からのメッセージが浮かんでいる。
「(そんなこと、一度も言ったこと無かったのに)」
 彼と生活を初めて一年。昨日よりも随分寂しい夜も、一人涙を流した朝だってあった。しかしそんな気持ちを伝えたらこの関係が瓦解すると分かっていたから、喉元までこみ上げる気持ちを、何度も飲み込んできた。
「(……なんで、今更)」
 酔っ払ってもいなかった。ひどく疲れていたけれど、頭は正常だったはず。口に出していいことと、悪いことの区別くらい付いたはずなのに。


 現場の翌日なので業務の大半が後片付けだったことと、残していた仕事も昨晩私が頑張ったおかげで、珍しく日の沈まぬうちに会社を出ることが出来た。本来ならば足取りも軽く帰るはずなのに、どこか心が落ち着かない。
 『出来るだけ頑張ります』なんて、メモを残したくせに。
 こつんと炉端の石を蹴り飛ばせば、ころころとそれは転がって、道路の端にぶつかって止まった。夕焼けの終わり、藍色の空に頼りない星々が輝いている。白い月はまだ明るい空の上にちょこんと身を潜め、夜が来るのをただひたすら待っていた。


「ただいま」
 そう口にしながら扉を開けば、今日は廊下の電気が点灯していた。見慣れた靴に小さく深呼吸をして、そして一歩足を踏み入れる。鞄の紐を持ちドアを開けば、底にはベッドに座るアドニスくんがいて、私の来訪を知るとテレビからこちらへと向いて「おかえり」と朗らかに笑った。
 構えていた気持ちが、彼の笑顔でとろとろと解けていく。ああ、好きだな。到底口に出来ない気持ちが心の中にぽつりぽつりと浮かび上がる。
「夕ご飯はまだだろう」
「うん、アドニスくんは?」
「俺もまだだ。一緒に食べよう」
 そう言うと彼は立ち上がった。ぎしりとスプリングが鳴き声を上げる。昨日随分と広く感じた部屋は、二人並んで立つとやはり狭くて、それでもこの空間がとても愛おしく思えた。そして無くしたくないとも、強く思う。
『……怒られるかもしれないが、昨日お前が、寂しい、と言ってくれて嬉しかった』
 頭の中にアドニスくんの一文が浮かぶ。あれは一体どういう意味で言ったのだろうか。聞けない言葉がぐるぐると、頭の中を巡り、回る。
「……アドニスくん」
「どうした?」
 彼の、琥珀色の瞳が瞬く。一歩、二歩。アドニスくんがこちらへと歩み寄る。友達同士だった昔よりも随分と近い距離。一緒に暮らしていてもアドニスくんからはどこか異国の香りがして、くらりと頭が揺れた。
「……今日はお肉が食べたいなあ」
 嬉しそうに綻ぶ彼の表情を見て、これでいいのだ、と私は思う。壊さなくともこの距離感でいられるのなら、ずっと、このままで。

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