くうねるところにすむところ_05
「ただいま」
そう言ってアドニスくんが帰ってきたのは日付を跨ぐか跨がないかの瀬戸際の時間だった。私はそのときもう体力の限界で、布団の中でうつらうつらと船を漕いでいた頃合いだった。
居酒屋へ行っていたのか、ほんの少し彼から煙草の香りがした。「たばこ」とぽつりと呟けば、アドニスくんは自身の腕を鼻先まで寄せて幾度か嗅ぐ。「臭うだろうか」との彼の言葉に、私は「うん」と、覚束なく言葉を落として枕に頭を寄せた。
「シャワーを浴びてくる」
「うん」
「飯は食ったのか?」
「うん」
「……疲れているな」
瞬きで点滅する視界にふと影が落ちる。なんとか目をこじ開けてそちらを見れば、アドニスくんがしゃがみ込んでいて私の頭に手を伸ばしているところだった。目を瞑れば頭に柔らかな感触。「お疲れ様」と彼の声に導かれて目を開けば、微笑みを浮かべるアドニスくんの顔が合った。
「寝ておいてくれ、遅くなってすまない」
私はそのとき非常に疲れていて、意識が夢と現の丁度境にいた。アドニスくんが動いているのもどこか夢心地だったし、撫でてくれていた手が離れるのも、どこか現実味を帯びない、夢の中のお話のように感じていた。
だから。
「やだ」
手を伸ばせば、簡単にアドニスくんの服を掴むことができた。
「さびしい」
はたりと、彼の動きが止まったのが分かった。ああ言っちゃダメな言葉なのに。普段は幅を利かせている理性も、どうやらまどろみに包まれているらしい。ふわふわとした現実感のない意識の中で「……やだ」と私は言葉を口から落とす。
「……寂しい?」
確かめるようにアドニスくんがそう繰り返す。急激な眠気の波に襲われながら何かを紡ごうとしたけれど言葉にならない。視界に影が落ちる。彼がしゃがみ込んだのだろうか。煙草の臭いがむわりと鼻腔をくすぐる。それでも眠くて眠くて、私は重たいまぶたをそのまま閉じた。
*
朝起きたら、隣はもぬけの殻だった。起き抜けの身体をなんとか起こしてあくびを浮かべれば、消灯しているテレビに草臥れた自分の姿が映る。今日も仕事だ。そう思いながらテレビをつける。時計代わりに流している朝の情報番組は、アドニスくんが寝ていない時には必ずつけるようにしている。
相も変わらぬキャスターが淡々と最近会ったニュースを読み上げる。どこそこのだれの不祥事に、どこかのイベント情報。今日も日本は平和そうですっと。話半分にニュースを聞きながら、手早く朝の準備を進めていく。
「(アドニスくん、昨日帰ってきたのかな)」
そういえば帰ってきていたような、気がする。気がする、というのもどうも布団に入ってからの記憶が曖昧で、いまいち要領が得ないのだ。まあお姉ちゃんと一緒なら問題は無いとは思うけれど、と、頭の中で学生時代の友人を思い出して、また一つ、あくび。
歯を磨きながらカレンダーを見ればアドニスくんの欄に『仕事』と。そして書き足したように『今日は早く帰る』と一言書かれていた。何かあるのかしら、と歯ブラシを咥えじっとカレンダーを凝視しても、それ以上の情報は何も書いてない。
記念日とか? でもアドニスくんの誕生日はまだ遠いし、私の誕生日でもないし、それ以外の記念日を作るような関係でもないし……。
それでも一応帰ってきたということが知れて、私は胸をなで下ろした。黒ペンで『仕事』と私も書き残し、少し考えたあとで『私も努力します』と書き足す。昨日の後始末はあれど、まあそう遅くはならないだろう。口をすすぎ、すっきりした状態で化粧を始める。
ふと、携帯を見れば着信があったのか緑色に明滅していた。取り上げて画面をつければ、何故かアドニスくんからの、新着メッセージ。
「なんだろ……」
扇風機を自分の方へと向けて、ベッドに腰掛けてメッセージをチェックする。
「……え?」
そこに浮かぶ文章に、思わず私は言葉を漏らした。
『昨日は寂しがらせてすまない。今日は早く帰る』
『……怒られるかもしれないが、昨日お前が、寂しい、と言ってくれて嬉しかった』