くうねるところにすむところ_03

 会社からほど近い定食屋は、晩ご飯時というのも相まってそれなりに混み合っていた。携帯を片手に定食を食べる人、豪気に笑いながらお酒をあおる人、様々な声に埋め尽くされているけれど、皆一様にスーツ姿なのはここがオフィス街だからだろう。
 馴染みの店だからか、店員さんは私たちを見るなりそのまま店内の奥まった個室に案内をしてくれた。普段なら予約を取らないと入れないようなスペースだ。
「今日は予約が入っておりませんので」
 なんて笑いながらメニューとお水を差し出す店員さんに私と晃牙君はお礼を伝える。仮にも芸能人を連れているから、人目につかない場所はとても嬉しい。それに会社へ戻る前にご飯を食べているところを同僚に見られる心配も無い。
 とはいえやはり、アドニスくんが待っている可能性もあるわけで。
 今月のおすすめメニューや、季節によって配置が換わるグランドメニューを開きながらごくりと生唾を飲み込む。晃牙くんは早々に「とんかつだな」なんて肉料理が並ぶグランドメニューのページを開いた。ハンバーグ。ステーキ。とんかつ。唐揚げ。美味しそうな写真と、先ほどから店内を漂う料理のかぐわしい香りが鼻腔をくすぐり唾液が止まらない。
「テメーはなににするんだよ」
「わたしは……」
 今、私の目の前には三つの選択肢がある。ここでご飯を食べてしまうか、はたまた甘味で空腹を誤魔化すか、それとも食べないか。
 欲望に従えばここで晩ご飯を済ませてしまいたい。それでも頭の中で『そうか、食べてきてしまったのか』なんて失望を顔いっぱいに広がらせるアドニスくんの表情が浮かび、どうもこのカードは切りづらい。
 かといって甘味。甘味かあ。空腹に甘いものを食べたら、さらに空腹が加速しそうだ。
 白米が食べたい。お肉が食べたい。お魚でも良い。脳内がカロリーを求めている。美味しいものは糖と脂肪で出来ているってどこかの誰かが言ってたような気がする。
 目の前に広げられた肉料理のメニューを注視していたら、晃牙くんが「はやくしろよ」と顔を曇らせた。ぐうと、お腹が鳴る。胃も私の決断をせかすように蹴飛ばしてくる。
「……いや、やめておく。お水飲んどく」
「あ? なんだそれ。腹減ってんじゃねえのか」
「もしかしたら、アドニスくんが家でご飯作ってるかもしれないし……」
 いや、可能性の話だけど。別に作ってて欲しいってお願いしている訳でもないから、作ってない可能性もあるんだけど。心の中でそう言い訳を並べながら晃牙くんを盗み見れば、彼はぽかんとした表情で「は?」と呟く。
「まだアドニスと暮らしてたのかよ」
「いやまあ、そういうことになる、かな」
「結婚すんのか?」
「け、結婚とか」
 視線を逸らせば「逃げんな」と晃牙くんから鋭い言葉が飛んでくる。しぶしぶとそちらを向けば険しい顔をした晃牙くんが、じとりとこちらを睨んでいる。
 晃牙くんにとってアドニスくんは大切なユニットメンバーだ。彼からしてみれば例え旧友であれ、大切な仲間が女と曖昧な関係で一つ屋根の下で暮らすなんて好ましくない話だろう。私だってそう思う。それでも一つ弁解させて欲しい。私がアドニスくんの家へ転がり込んできたのなら文句を浴びせられてもかまわない。でも今回のケースは逆なのだ。アドニスくんが私の家へ、転がり込んできたのだ。
 なんて、晃牙くんに言えるはずもなく、居心地の悪い空気に私は両手を膝の上で組んだ。
「……付き合ってもない、です」
「はあ? まだよく分かんねえ状態で暮らしてんのか」
「……そうなります」
 思わず敬語になってしまう私に、晃牙くんは少し口を開いた後、またすぐに閉じた。釈然としない表情を浮かべ、それでも文句を言わずに手元の呼び出しボタンを押す。ぴんぽん、なんてこの空気にそぐわない程の脳天気な音が聞こえる。「はあい」なんて定員さんの声が響いた少し後に、こんこん、と個室の扉がノックされた。次いで扉が開かれ、笑顔を浮かべた店員さんが私たちを見る。晃牙君は店員さんを一瞥するとすぐにメニューに目を落とし「とんかつ定食、二つで」と言ってメニューを閉じた。
「とんかつ定食二つですね。並盛りでよろしいでしょうか」
「並と大盛り一つずつで」
「かしこまりました」
 目を瞬かせる私をよそに晃牙くんはそうそうにメニューをかき集めて店員さんへと渡してしまった。店員さんはそれを受け取ると、さっさと個室から出て行ってしまう。
 ぴしゃりと扉が閉められて、この部屋の空気の重量は一気に増した。後ろめたい私。口を噤んだ晃牙くん。個室の上にぽっかりと空いた窓から他のお客さんの楽しそうな声が聞こえてくるけれど、まるで空気の上澄みを滑るようにこちらまで届かずにどこかへ飛んで言ってしまう。
 浅く息をしながら彼の名前を呼べば、ぎろりと睨まれた。わかるけど、わかるけど!
「非人道的なことをしてるのは理解してます……」
「……まあ俺様もとやかく言うつもりはねえよ」
「そうなの?」
 私の一言に彼は頷くと指で水を手繰り寄せた。そして一口あおるとソファの背もたれに体重をかけて、深くため息を吐く。
「例えばこれがテメーとスケコマシヤローだったり、アドニスとしらねえ女だったら言ってたかもしれねえけど。アドニスにも考えがあってのことだろうし……まあ」
 もう一度コップが傾く。からん、と気休め程度に入った氷が音を立てた。
「学生時代、馬鹿みてえに好き同士だったのにくっつかなかったテメエらが、大人になっても同じ事を繰り返してる辺りは、マジで救いようのねえ馬鹿だと思うけどよ」
 と彼は八重歯を見せるようににかりと笑った。

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