Calling_07

 世の中には『百物語』というものがある。三つの部屋を使い、参加者が集う部屋を含んだ二部屋の明かりを消し、一番奥まった部屋に百個、明かりのついた行灯を置く。参加者は一つ怪談話をするたびに、奥まった部屋へ行き、一つ一つ行灯を消し、そして鏡を見て戻ってくる。
 そんな話を聞いて、似てるな、と思った。部屋を隔てているわけではないけれど、毎夜かかってくる電話。乱暴に切れる電話。暗くなったディスプレイには自分の姿が映り――なんて少し、暴論だろか。(それに相手はアドニスくんだし。そもそも百物語とかも知らなさそうだし)

 それでも(おそらく)百回目の電話を迎える今日は、ほんの少しだけ何かが起こるかもしれないとわくわくしていた。夏の熱を忘れたような涼しい夜。蝉の声よりも秋の虫の音が響き渡り、風は縦横無尽に吹き渡り窓ガラスを揺らす。今日はつけなくてもいいやと切ったクーラーが、押し黙り私を見下ろしている。ぼうっと天井を見つめていたら、今日もまた、携帯が震えた。

「もしもし」

 見慣れた番号に私は電話を取る。電話口の向こうでもはや聞き慣れた声が『もしもし』と応答する。壁に背もたれながら、この電話が(おそらく)百回目だよ、と伝えようとするよりも先に、アドニスくんが私の名を呼んだ。その声が妙に神妙で、居住まいを正してしまう。

「どうしたの?」
『……今日は、仕事だったのか?』

 アドニスくんの声に、自分の服装を見る。まだスーツを着たままのその姿に、そういえば着替えてなかったな、と肩を落として「そうだよ」と答えた。アドニスくんはその声に押し黙り、そして

『どんな仕事だったんだ?』

 と口にした。そういえばこれだけ電話していて、仕事の話が出てきたのは初めてのことに思う。私は「えー?」と小さく笑いながら今日行った仕事を思い返す。

 しかし、思い出せない。

「え……っと」

 家へ帰ってベッドへ転がったのは覚えている。その前は何をしていたの? スーツを着ているから、仕事をしていたのは確かだ。スーツを着るような仕事? 普段からスーツだったっけ……?
 私の戸惑いに追い打ちをかけるようにアドニスくんは『お前は今、何の仕事をしているんだ』と口にする。すぐに答えられるはずなのに、言葉が出てこない。

 そうだ名刺だ! と思い立ち財布を開ければ、その中には何も入っていなかった。名刺だけじゃ無い。お金も、カードも、何一つ入っていない。
 通勤鞄をひっくり返す。あれだけ『重い』と感じていたのに、鞄の中は空っぽだった。

「あ、どにす、くん」

 乞うように彼の名前を呼べば、アドニスくんは『落ち着け』と口にした。私は布団を体に巻き付けながら、彼の電話に頷く。やけに、寒い。体が小刻みに震える。なんなんだ、これは。つきり、と頭が痛む。昔経験した体のだるさが、背中に押しかかる。

『……お前は学生の頃、倒れたことを覚えているか?』
「二年生の頃でしょ? みんながお見舞いにきてくれて――」
『違う。三年の話だ』

 くらり、視界がゆがむ。離さないようにしっかりと携帯を握れば、吐き気とはちがう、しかし胃からせり上がってくる何かに、思わず軽くえずきそうになる。咳で誤魔化せば電話口の向こうで『大丈夫だ』とアドニスくんの声。携帯が仄かに暖かい。アドニスくんと繋がっているからだろうか、握っているだけで随分と安心した。

『目を瞑ってくれ』

 何を言っているのだろう。そうは思いながらも目を瞑る。携帯を握る手が、強く掴まれた気がした。

『深呼吸をして、そうだ、良い子だ』

 彼の声に合わせて息を吸い、吐く。体を覆っていた布団が、ばさりと落ちる音がした。その音を皮切りに、体験したこともないような浮遊感に襲われる。ゆらりと、頭がゆれる。自分の体の輪郭が曖昧になる。ただ確かなのは右手に灯る温もり。手を緩めれば携帯が手のひらから離れた。しかしベッドに落ちるような音は聞こえない。その代わりに、握られているような……。

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