Calling_08

「――起きたか」

 目を開ければ、見覚えの無い、真っ白な天井が飛び込んできた。慌てて体を起こそうとすると「起きるな」とぴしゃりと声が飛んでくる。横を見ればアドニスくんが怒ったようにこちらを見つめている。
 状況が飲み込めなくて、それでもなんとなく居心地が悪くなり口元まで布団に潜る。そんな私を見てアドニスくんは深深とため息を吐いて「医者を呼んでくる」と立ち上がった。
 右手から離れる温もりに、そこでようやく彼が私の手を握っていたことに気が付いた。考えるより先に「まって」と口から言葉が飛び出す。あまりの掠れた声に驚いたけれど、アドニスくんは素直にこちらへと戻ってきた。

「なんだ」

 言葉にするのが恥ずかしくて、右手をぷらぷらと揺らす。あまりの腕の重さに驚いたけれど、気付いてほしくて大きく揺らせば、彼は呆れたように首を横に振り「わかった」と私の手を握った。そして握ったままナースコールを押す。どうやら私は眠っていたらしく、アドニスくんは応答する看護師さんへ私が起きたことを伝えている。その会話をぼんやりと聞きながら、どのくらい眠ってたんだろう、なんて考えた。

 視線を宙へと投げる私にアドニスくんは怪訝そうな表情を浮かべる。そして両手で私の手を包み「倒れたんだ」とぽつり、呟いた。

「私が?」
「そうだ」
「……起きたって事は、ずっと眠ってたの?」
「ああ」
「……百日くらい?」

 まだ輪郭がはっきりしている不思議な電話を思い出しながらそう口にすれば、アドニスくんはまた怒ったように顔を厳しく歪めて「笑えない冗談だ」と吐き捨てる。べつに笑わせようとして言ったわけではないんだから、そんな顔しないで欲しい。眉を下げる私に彼は眉根を寄せて「二日だ」と言葉を落とす。

「聞けば過労らしい。体調が優れないとレッスン中に休んでいたのは覚えているか?」
「……?」

 レッスン中? 繋がらない単語に私は首を傾げる。確かによくよく見ればアドニスくんは制服姿で、そこそこに褪せた緑色のネクタイを締めている。途端に、土石流のように記憶が蘇ってきた。夏の暑さが和らいできた校庭。放課後、体操服で走り回る陸上部員達。その脇でレッスンを行っていた私と――そうだ私、レッスン中に気分悪くなって木陰で休んでいたら陸上部のみんなも気にかけてくれて……。

 繋がる記憶にアドニスくんを見れば「思い出したか」と彼が言う。こくりと頷けば彼は眉を下げて「心配したんだ」とまた強く私の手を握った。

 そうか、あれは夢だったのか。現実を思い出した途端に朧気になった夢の出来事をなんとか手繰り寄せる。しかし手繰り寄せようとすればするほどに、もろもろと崩れて霧散してしまう。大人の私はどんな顔をしていたっけ。大人のアドニスくんはどんな声をしていたっけ。今やもう、思い出せない。

「……あのね、アドニスくん」
「なんだ」
「アドニスくんと電話してる夢、見てたの」

 私がそう言えば、彼は虚を突かれたように目を丸くして「でんわ」と私の言葉を繰り返す。「そうだよ」と返せば、彼はようやく表情を和らげて「そうか」と呟く。

「どんなことを話してたんだ?」
「覚えてないんだけどね」
「覚えてないのか」

 何か約束をしていた気がする。でも思い出せなくて肩を落とせば「無理に思い出さなくてもいい」と彼はそう言った。そういうものなのだろうか。右手の暖かさに絆されながら「うん」と私は頷く。

「もしかしたら」
「うん?」
「俺がお前に、ずっと話しかけていたからかもしれない」
「そうなの?」

 アドニスくんは「聞こえているかもしれない、と思って」と照れ恥ずかしそうに微笑んだ。私は布団から顔を出して「どんな話をしてたの?」と彼に尋ねる。アドニスくんはやはり照れたように、また、ふふ、と微笑む。

「秘密だ」
「気になるなあ」
「いつかまた話そう」

 これは話してくれないやつだ。私はきゅっと口を噤む。アドニスくんは優しいけれど存外頑固だから、きっとこれ以上追求しても話してはくれないだろう。
 外は随分と風が吹いているらしく、ガタガタと窓ガラスが揺れていた。その情景に『なにか』が重なって見えた。

「海」

 なぜ、その言葉が出たのかは分からない。無意識に飛び出した言葉にアドニスくんは目を瞬かせながら口を開く。

「行きたいのか?」

 彼の言葉に私は首を捻った。行きたいのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

「わからない」

 そう素直に白状すれば、遠くから靴音が複数聞こえた。もしかしたらお医者さんかもしれないな、と私は握る手をほんの少し強めた。
 アドニスくんはそんな私の手を優しく握り返して「そうだな……」と微笑む。

「じゃあ、お前の体調が、良くなってから」

 聞き覚えのある台詞とともに、ぷつり、と何かがきれる音がした。音の正体は分からないけれど何故か聞き覚えのある――随分と懐かしい音だなと、そう思った。
 

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