Calling_05
『昔倒れたことがあっただろう』
それは今言うことなのだろうか。怒気を孕んだその言葉を咳で返せば呆れたようなため息が聞こえた。体調を崩したくて崩しているわけじゃないんです。そう言おうにも声がでない。かすれた声でなんとか言葉を返せば『切るぞ』と彼の声。喉を整えるのも忘れてかすれた声で「切らないで!」と言えば、電話口の向こうで困ったように言葉に詰まる音が聞こえた。
常時つけるようになったエアコンは、時折ごうごうと音を立てて冷気を吐いている。窓の向こうには燦々照りの太陽と、夏らしい大きな積乱雲。窓を閉め切っているおかげで蝉の鳴き声は薄くしか聞こえないけれど、それでも十分、夏を感じさせる程には大きく鳴き声を上げていた。
そんな中私は羽毛布団を引っ張り出して、その中にくるまっていた。寒い、だけど暑い。夏風邪というのは厄介なもので、体には悪寒が帯びるくせに、布団にくるまれば暑さを感じる。だけどタオルケット一枚ではやはり寒いような気がして――折衷案として、こうして贅沢な倒れ方をしている。
頭が軋むようにずきずきと痛む。電話口から『大丈夫か』と彼の声。近くにあるペットボトルから水と一口飲んで「大丈夫です」と私は口にした。本当は全然大丈夫では無いのだけれど、一人暮らしの風邪というのはとても心細い。誰かにそばにいて欲しい、それが叶わないのなら、誰かの声を聞いていたい。そんな一心で、なんとか会話の糸口を探す。
『風邪なら寝ていた方がいいだろう』
「寝てるもん。今すごくごろごろしてます」
『そうじゃない』
薄くだけれど、呆れの滲んだ声だ。熱に浮かされたせいで、意識の上澄みのような浅いところでしか頭が働かない。
「だって」
寂しいんだもの。続けられない言葉に、思わず口を閉じる。
『だって、なんだ?』
彼の言葉に代替えの言葉を探す。
だって、だって? つらい? しんどい? ……さびしい?
ろくな言葉が出てこなくてため息を吐けば、電話口の向こうからも同じようにため息が聞こえた。つきりと頭が痛む。しばらく前におでこにはった冷却シートは、淵が乾いてぺりぺりと肌からめくり上がっているようだ。
蝉の声が聞こえる。夏休みだろうか、楽しそうな子供達の声も聞こえる。私は一人、部屋の中。窓ガラスには薄らと、情けない私の姿が映っていた。
『無茶はするな。倒れるほど働かないでほしい』
「そうはいっても……」
『……昔お前が倒れたとき、ずっと目を覚まさなかっただろう』
「ずっとってそんな、大袈裟な……」
『大袈裟じゃ無い』
言い切られたその言葉に思わず閉口してしまう。倒れたのも事実で、ほんの少しの間、意識が無かった時間があったのも事実だ。それでも何日だとか、何十時間意識が途切れていたわけではない。しかし反論する事も出来ずに、私はただ「ごめん」とぽつり、言葉を落とした。
「でもこれは過労じゃないから! 夏風邪だから!」
『夏風邪だからいいという問題でもないだろう』
「そうなんだけど……うう、おこらないで……」
『怒ってはいない……大丈夫なのか。寝たほうがいい』
たおやかなその声に良心がぐっと痛む。そうだよね、寝ないと治らないもんね。めくれ上がった冷却シートをもう一度しっかり貼り直して、肩まで布団に潜り、体を横に向けた。
携帯には『乙狩アドニス』の文字。この電話口の向こう、彼は一体どこでなにをしているのだろうか。
つきりと頭が痛む。小さく呻き眉を寄せれば『本当に、寝た方が良い』と言い聞かせるような彼の声が聞こえた。
「……わかった、寝ます。でも寝付くまで電話つけといてもいい?」
『ああ、大丈夫だ』
「仕事は……?」
『気にしなくていい』
優しいその言葉に甘えて私は目を瞑った。
「なにか話してくれると嬉しい……」
『話か。なにがいい』
「じゃあ、今何しているか聞いてもいい?」
『今か』
意識がどんどん遠のいていく。急速に眠気に引っ張られるように、通話口の彼の言葉も曖昧に頭へと響く。
『今は――』
聞こえたような、聞こえなかったような。意識に触れない程度に届く音を聞きながら、私はそのまま眠りに落ちていった。