Calling_04

 その日、私はまだ帰路の途中だった。からりと晴れていた天気は夜まで続いたようで、濃紺の空には星が燦然と輝いていた。寒くもなく、暑くもない季節。私は薄手の長袖の上着を羽織り、肩から鞄を提げて大通りを歩いていた。
 まだ夜もさほど深まっていないためか、車はひっきりなしに道路を往く。いくつものヘッドライトが、排気ガス入りの風だけ残して走り去る。

 そんな轟音の中、電話に気が付いたのはほんの偶然だった。ふと今何時だろう、と携帯をまさぐれば、指先に触れたそれが振動していることに気が付いたのである。慌てて取り出せばおなじみの『乙狩アドニス』の文字で、私はイヤフォンを耳に当てて通話ボタンを押す。

『もしもし』

 彼の声が響く。いつもよりも声が近い。

「もしもし」
『……出先か?』
「帰り道なだけ」

 イヤフォンのおかげで、去りゆく車達の音は気にならない。ただ残念ながらマイク付きのイヤフォンでは無いため、私は胸元まで携帯を持ち上げてマイク部分を口元へと寄せた。耳を澄ませれば彼の方は随分静かで、物音一つ聞こえない。もしかして今日はオフなのかな、と思いつつ、点滅しだした信号の前で歩みを止める。

「アドニスくんはお休み?」
『いや、帰ってきたところだ』
「そっか、お疲れ様」
『お前は、無理をしていないか?』

 彼の言葉に、ふと昨日伝えようと思っていた言葉が頭に浮かぶ。思わず頬が緩み、慌ててきゅっと結ぶ。一人でにやけてるなんて、ちょっとかっこ悪い。小さく咳払いをすれば通話口の向こうから『どうした?』とアドニスくんの声。私は慌てて「なんでもないよ」と首を横に振った。まあ振ったところで、見えないんですけど。

「元気だよ、無理はしてません」
『ならいいが』
「むしろアドニスくんの電話をもらってから元気になっている気がするんだ」
『元気に?』
「うん。はじめて電話もらった日、あの日ちょっとしんどくてさ……今は元気なんだけど」

 そういえばなんで元気が無かったんだっけ。体調が悪かった? 疲れていた? ほんの一月前の事なのに、霞がかかったかのように記憶が薄い。それでもだんだん元気になっている確信だけはあり、私は言葉を紡ぎ続ける。

「これってアドニスくんから毎晩元気もらってるからなんじゃないかなって」

 信号が青に変わる。誰もいない交差点を私はえいやと渡る。

「……アドニスくん?」

 信号を渡りきり、遊歩道を歩きながら彼の言葉を待つ。しかしアドニスくんは何も答えず、ただ押し黙っている。てっきりアドニスくんのことだから息災を喜んで貰えると思ったのに、もしかして言葉が押しつけがまし過ぎたのだろうか。頭の中で先ほどの言葉を反芻していると『あまり』と、彼は言葉を選ぶように、途切れ途切れに口を開く。

『……あまり、無茶をしすぎるな』
「アドニスくん?」
『……今日はもう切る。お前も気をつけて帰れ』

 ぶっきらぼうな言葉だけを残して電話は途切れた。相手の不在を知らせる電子音だけが空しく鳴り響き、私はイヤフォンを外して「アドニスくん……?」と小さく彼の名前を呼んだ。

 スピードを上げた車が、私の脇を通り過ぎる。舞い上がる、熱された風。煙臭いその香りが舞い、私は携帯をポケットの中に仕舞うと、ゆっくりと歩き始めた。

 どうしたんだろう一体。何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。どうしよう、明日から電話が途切れてしまったら。

 そうだメールで謝ろう! と立ち止まりスマホを開けば、そういえば電話番号しか知らない事に気が付く。電話番号も変わっていたのだから、きっと登録してあるアドレスは変わっているだろうし、かといって大神くんたちに連絡を取り合うほどの事柄ではないように思える。

 しばらく悩んだ後、ショートメッセージを送ろうと短文の謝罪のメッセージを手早く作り、送信ボタンを押す。しかし即座にメールはエラーとなり私の元へと舞い戻る。不幸は重なるものなのか、都会のさなかに『圏外』の文字。

 ついてない、と思いながらも私は観念してスマホを鞄の中へとしまい込む。はあ、とひとつ吐いたため息は、大通りを飛び交う車達にかっ攫われてしまった。

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