Calling_02
『たまにこうして』という彼の言葉から、おそらく近い将来電話がかかってくるとは思っていたけれど、まさか次の日に電話がかかってくるとは思いもしなかった。
喧噪を吸い取った夜の空気は随分と冴え渡っている。昨日よりも調子の良い体をベッドに横たえながら、ふわあと一つあくびを浮かべる。今日はそこまで気温が上がらなかったから、エアコンはいらなさそう。網戸越しに流れる、湿気を孕んだ、しかしまだ冷たい初夏の空気を扇風機で部屋中に攪拌させる。窓の向こうから薄く、蝉の声が聞こえた。もう夏は近い。
そんなさなかに、携帯が鳴った。静まり返った空気を彩るかのように軽快な音楽が部屋に響く。私はのっそりと起き上がり充電器に刺さってある携帯を眺めた。点灯した画面には『乙狩アドニス』の文字。ぴくり、と心が動く。いやいや、相手はアイドル。心の中ですぐさま思い直して、携帯を取り上げ通話ボタンを押した。
『もしもし』
どうやら今日は電波の良いところにいるらしい。昨日とは打って変わってノイズも何も聞こえない、クリアな音声に「もしもし」の声が思わず弾んでしまう。アドニスくんは私のその弾んだ声に小さく笑い『元気そうだな』と言葉を零す。
ちょっと恥ずかしくなって、小さく咳払いした後で「まあ、元気です」と努めて平静な声を出す。それでもアドニスくんは『元気ならいい』と笑いを滲ませた声を上げた。
『昨日はすまなかった』
「ああ、大丈夫だよ。電波が悪かった?」
『電波?』
「急に切れたし、ノイズもすごかったから」
私のその言葉にアドニスくんは少し押し黙り『そうかもしれない』と言葉を落とした。奇妙な間だと思いつつも「今日はクリアに聞こえます」と言えばアドニスくんは『ああ、そうだろうな』と言った。ほんの少しだけ堅い声に「疲れてる?」と問いかければ、また少し間が空いた。
「疲れてるなら、電話、切ろうか?」
『いや、大丈夫だ』
「本当?」
『ああ。ありがとう』
柔いその声に私は小さく息を吐いてそのままベッドに転がる。ぼすん、という音が聞こえたのか、電話口の向こうから『聞こえてるぞ』という声と、薄く短い笑い声が聞こえた。
「昨日のあれね、アドニスくんがうっかり切ったのかと思ったの」
『俺が?』
「だってアドニスくん、携帯の扱い苦手じゃない」
私が笑い声を落とせば、少し不満そうな声で『昔の話だろう』と声がする。「今では平気なの?」と私が問いかければ『ああ』と妙に自信に満ちた声が返ってくる。
『こうして電話も出来ているだろう?』
「そうだね。あの頃に比べたら上出来だね」
けらけらと笑えば、悔しそうな彼の音が聞こえる。だって電話をかけるなんて、初歩的な初歩じゃないか。笑いながら、今アドニスくんとこうして他愛も無い話をしてることにふと幸福を覚える。最後に会ったのはいつだっけ。卒業式以来かもしれない。忙しさにまみれてしまった記憶の中で、思い出は薄く遠い。
靄がかかったような、卒業式の曖昧な思い出を頭の中に巡らしていたら『あの頃は』というアドニスくんの声で、現実に引き戻される。
『あの頃は、お前にとって楽しい日々だったか?』
突然の問いかけに「へ」と間抜けな言葉が漏れる。あの頃は、学生時代だよね? 混乱しながらも「うん」と返せば『そうか』と安堵したような彼の声が返ってきた。もしかして本当に彼は疲れているのではないだろうか。アドニスくんらしくない、ほんの少し悲観的なその質問と、最初の随分堅い声を思い出し「やっぱりアドニスくん疲れてる?」と尋ねれば『そうかもしれないな』と自嘲染みた笑い声と小さなため息が聞こえた。
「切ろうか?」
『……そうだな、明日も仕事だろう?』
「うん、アドニスくんも?」
『ああ、俺もだ』
ふと時計を見れば十一時を指し示していた。明日も仕事かあ、と思いながら「じゃあ、そろそろ」と言葉を切る。なんとなく名残惜しいな。自分から切り出しておいて言えっこないけど。それでも耳をそばだてれば『じゃあまた明日』とアドニスくんはそう返事をした。
明日、なんて。なんだか学生時代に戻った気分だ。嬉しくなって「うん、また明日」と返せば『じゃあ』と短い別れの言葉とともに通話が切れる音がした。
見下ろせば真っ暗な画面に学生の頃の自分の顔が映っているような気がした。瞬けばその幻はすぐに掻き消えてしまったけれど、なんとなく懐かしい気持ちが胸の中に膨らみ、私は頬を緩ませたままごろりとまたベッドに転がった。