Calling_01
それはとてつもなく疲れていた夜だった。身体は何故かとても重いし、頬に貼り付いた僅かな髪の毛にも苛立ちを覚えてしまう。それほどまでに、余裕の無い夜でもあった。
おそらく梅雨明けが近いのだろう。日を追うごとに増える湿気をたっぷり蓄えた夜の空気は冬のそれよりも随分と重く、歩くのでさえ重労働に思えた。仕事の資料やパソコンが入った鞄をずっと右肩に下げているせいで、ずきずきと片側だけが痛む。ヒールで現場を駆け回っていたからだろう。つま先だってとても痛い。
そうやってとても重たい夜を歩き抜けて、ようやくマンションのエントランスにたどり着く。入り口をくぐり、そしてまた疲れた体に鞭を打ちながら階段を登り自分の部屋へ。靴を脱ぎ捨てた私は適当に上着を部屋に放ち、そしてなだれ込むようにベッドへと身を投げ出した。
昼間中、初夏の空気で温められた部屋はとても生温い。籠もったようなその空気が息苦しくて、手探りでエアコンのリモコンを探し電源を押した。年代物のエアコンは鈍い音を立ててゆっくり起き上がると、仄かに埃臭い息を吐き出しながら動き出す。ついこの間まで暖房を使っていたのに。ごうごうと音を立てながら動き出すそれを見て、またため息。吐く度に幸せが逃げるというけれど、幸せというのはそんな沢山あるものだろうか。それとも幸せというものがため息によって薄まっていくのだろうか。
「(昔はもっと楽しかった気がするなあ)」
次第に涼しくなっていく部屋の中で、私は着替えもせずに寝返りを打った。二年間。あの学び舎で過ごしたのはたったの二年間だけだ。しかしその二年間は時間に不釣り合いなほど、随分と濃厚だった。
そうやって思い出を手繰り寄せていたら、突然携帯が震えだした。床に投げ出していたからか、鈍く低い音がやたらと響いている。
私はマットレスからひょこりと顔を出して、手を伸ばさずに番号を確認する。あれは私用の携帯だ。仕事用ではない。ディスプレイに表示される知らない電話番号に眉を寄せる。昼時ならばセールスかなとも思うけれど、夜も深まりきった深夜十一時。こんな時間に勧誘をかける熱心な業者もいないだろう。
三コール目が響く。着信はまだ途切れない。
もしかして仕事なのだろうか。疲れた体を横たえたまま携帯に手を伸ばす。たまに仕事の電話が私用の方にかかってきたりするので(馴染みのお客さんにはこっそり教えたりしているし、大抵そういう人たちも複数台携帯を持っているから、突然登録していない番号からかかってくることもあったりするのだ)私はのっそりと起き上がり携帯を眺めた。
もう五コールも響いているのに、着信は切れる素振りがない。
しばし考え、しかし鳴り続けている携帯に根負けして私は通話ボタンを押した。きっと仕事の電話だろうと思い、社名と名前を述べれば返事の代わりにノイズのような音が聞こえる。混じり聞こえた戸惑いの声に、もしかして間違い電話なのではないか、と思う。
随分とノイズがうるさい。出先なのだろうか。
耳を澄ませば機械のような、甲高い音が途切れ途切れに聞こえた。
「……もしもし?」
きゅ、と強く携帯を握る。ノイズの向こうで、小さく息をのんだ音が聞こえたような気がした。
『……聞こえているだろうか』
「聞こえてます、けど……」
随分と電波の悪いところにいるようだ。どうにか聞き取りたくて、携帯を握る力がさらに強まる。ざらざらとしたざらざらした不快な音の向こうでまた、電話の主が息を飲んだのが聞こえた。そして(おそらく)彼は少しだけ黙り『俺だ。乙狩アドニスだ』と口にした。
「アドニスくん?!」
思わぬ名前にスマートフォンを握りしめてしまい、ぴ、と短い、音量が変更される電子音が響く。途端に受話器の向こうのざらつきは大きくなり、私は慌てて耳からスマートフォンを離して、音量ボタンを押し直した。ディスプレイに浮かぶ番号はやはり見たこと無い番号で、それでも声はアドニスくんの声で。私はもう一度画面に耳を押し当てて「アドニスくん?」と尋ねる。彼は私のその言葉に、少し笑った。
「どうしたの、急に」
『……お前と話がしたくて』
「話?」
旧友の突然の連絡に、私はもはやノイズ音など気にならなくなっていた。話ってなんだろう、と思わず居住まいを正せば、まるで見透かしたようにアドニスくんは笑い『そんな改まった話じゃない』と口にする。
私は「そっか」と姿勢を崩し、そのままマットレスに飛び込んだ。柔らかな布団が頬をくすぐる。枕を手繰り寄せ、そこに顎を乗せて電話口の向こうへと意識を向ける。電話を握る手が、スマートフォンに熱されて仄かに暖かくなる。
少しだけ押し黙ったアドニスくんは『たまにこうして、話してもいいだろうか』と口にした。やけに律儀なその物言いに「うん。構わないよ」と伝えればぶつりと切れる電話。おや? と思い耳からそれを離せば、携帯はいつもの待ち受け画面を灯していた。
「(急に切れた?)」
電波が悪かったから? いや、そういえばアドニスくんは携帯の扱いに不慣れだったっけ。そんなことを思い出し、私は消灯された画面をつけて着信履歴を確認する。履歴の一番上に表示されている番号にリダイアルをかければ、しばらくの呼び出し音の後、留守番電話に切り替わってしまった。
なんだったんだろうか、今のは。
狐につままれた気持ちで私はスマートフォンを見下ろす。ごうごうとエアコンが響く。外にはひっきりなしに通る車の音が聞こえる。もう一度通話ボタンを押しても留守番電話に切り替わるばかり。枕の上にスマートフォンを置き、それを見下ろす。だけど彼から連絡がかかってくる素振りはない。
はじまりはそんな初夏の日の、夜だった。