星に願いを_21

 三月三十一日。朝から私は何度もその言葉を心の中で繰り返す。三月最後の日。世間的には春休みで、朝からひっきりなしに子供達の楽しそうな声が響いていた。私はというと朝ご飯を食べながら、ああこれが最後の朝ご飯なのか、だとか、昼ご飯を作りながら、ああここで昼ご飯を食べるのも最後になるのか、だとか、暮れる太陽を見ながら、もう『私』に昼はやってこないんだ、なんて何度も繰り返し『最期』を噛みしめていた。
 泣き叫ぶほどに悲しいけれど、心は不思議と凪いでいた。時計の針が回るのを見つめながら、今日も他愛の無い一日が閉じていく。

 部活だと出かけた弟が帰ってくる。家族団らんの晩ご飯を迎え、弟とお風呂に入る順番を喧嘩しながら一番風呂を勝ち取る。と思えば見たい番組は弟にとられてふて腐れていたら、母親から「仲良しね」なんてなだめられた。

 そんな当たり前の一日だった、今日も。
 誰も『私』がこの世からいなくなることなど、予想だにしていないだろう。
 でも、いないのだ。
 明日私は、ここにはいない。

 夕日が沈む。時計が進む。早寝の家族だから、十時半を過ぎればしんと家の中は静まり返っていた。リミットはあと一時間半。私はなんとなく眠れなくて、窓を開けてぼうっと空を眺めていた。夜風はまだ冷たい。遠くで電車の通る音がする。世界は通常運行。明日もきっと、平和な一日だ。

 そう思うと、ずるい、という気持ちがふと沸いた。私は前に進めないのに、ずるい。見上げれば憎たらしいほどの星空で、あまりの広大さにぞっとした。いろいろな光が、形が、瞬き私たちを見下ろしている。その数多ある星のどれかに、私は願い事を賭した。濃紺の空に隠してくれたらよかったのに。流れるさなかに、落っことしてくれてもよかったのに。

 本当は嫌なんだ。今まで仲良かった分、全てが元に戻ってしまうことが。なまじ今回が楽しかった分、反動はすさまじいだろう。考えただけで吐き気がする。はじめまして、私、ここに転入してきた――。笑顔を添えて何度も紡いだ言葉が、呪いのように私の背中にのしかかる。

「おい」

 大体晃牙くん、なんとかしてやるって言ったって春休み中なにもしてくれなかったじゃない。いや、レオンの散歩には行ったけど。アスレチックにも(お仕事で)行ったけれど。 そうやって心の中で恨み言を何度も呟けば手元に置いてあった携帯が震えた。見ればディスプレイには『大神晃牙』と表示されており、嫌な予感がした私は老眼の方が新聞を読むときのように距離を離し目を細めて、それを見つめた。何のようだ。さよならでも言うつもりなのか。
 携帯は震え続ける。いやだなあ、出たくないなあ。そう思えば窓の下から乱暴に自転車が何かにぶつかる音がして視線を向ければ、そこには携帯片手に苛立たしげにこちらを見上げる、よく見知った姿があった。

 でんわに、でろ。

 声は聞こえない。しかし、口の動きからおそらくそのようなことを言っていることは分かった。私は慌てて通話ボタンを押して携帯を耳に当てれば、向こうから「降りてこい、すぐにだ」と乱暴な声とともに電話が切られた。

 常識的に考えて、深夜に出歩くなんてどうかしている。家族にばれたら大目玉だし、警察に補導されるかもしれない。それにいま、パジャマだし。

 窓を閉めた私はそんなことをぐるぐると考えながらもできるだけ物音を立てないようにクローゼットを開き、洋服を取り出した。パジャマを脱ぎそれに着替え、携帯と財布……そして体育館シューズを抜き身で持ち、できるだけ静かにドアを開ける。
 誰もいない廊下はしんと静まり返っていて、妙な緊張感で満たされていた。床板の音を立てないようにつま先立ちで歩き、靴では無く体育館シューズを履いてたたきに降りる。
 
 ほんとうなら、こんなことはしない。でも今どれだけ悪いことをしたって、どうせ帳消しになるのだ。だったら最期くらい好きに生きたっていいでしょう?

 辺りを見回し親がいないことを確認した私はできるだけ静かに扉を開けて外へと出た。鍵を閉めて門から飛び出し、こちらを睨み付ける晃牙くんに黙って手招きをして、家からできるだけ走って離れる。どきどきと、心臓が揺れる。背徳感と、興奮と、悲しいやら、楽しいやら、複雑に気持ちが絡み合って、心臓の音を加速させる。
 自転車で私を僅かに追い抜いた晃牙くんは「そのまま俺の家まで走るぞ」と自転車から降り、彼も自転車を押して走り始める。

「うん」

 私は素直に頷いて、誰もいない深夜の街を走り抜けた。

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