星に願いを_20
ぼうっと放課後の空を眺めていた。後ろから足音が近づいていることには気がついていたけれど、反応する気力は無かった。疲れているわけでは無い。ただその日――三月三十一日が近づくにつれて、物事への関心が刻々と薄れていくのだ。この流れに抗おうと思っていた日々が嘘のように、今はただ滞りなく残りの日々を進めていきたい気持ちでいっぱいだった。風に押されるたび、赤紫に焼けた雲は抵抗することもなくたおやかに流れていく。ほんの少し前まではこの時間になれば日も落ちていたのに、と息を吐けば「気付いてんだろ」と頭を堅い何かで小突かれた。見上げれば両手に缶を持った晃牙くんがいて、一つ私に投げて寄越すと、黙って隣に佇む。
暦の上ではもう春で、ぽつぽつと梅の花が咲いている。屋上から見下ろす景色は相変わらず大きな変化は無くて、昨日と同じ風景を見下ろしながら手の中で熱を放つ缶のプルタブを押し上げれば、ぱつん、と小さな音を上げて開いた。か細い湯気が立ち上るのを見て、そういえばもう息を吐き出しても白く曇ることもなくなったな、と、私は缶に口をつけた。どうやらココアらしい。甘ったるい味が、口内に膨らむ。
晃牙くんはなにか口にするでもなく、ただ缶を持ちぼうっと空を眺めていた。返礼祭を終え、これからユニットを背負っていく立場となるのだ。いろいろ考えることもあるのだろう、と声をかけずに私も空を眺める。
ユニットリーダーになる晃牙くん。薄く頼りない記憶に、それを背負うことになり虚勢を張ったり空回りしている彼の姿が浮かんだ。これはいつの記憶だろうか。目を閉じれば、困ったように『何の冗談だよ』と口にする晃牙くんの姿も浮かぶ。これは『前回』の記憶か。そういえば前回は丁度この頃――返礼祭前後にループしていることがばれたんだっけ。そう考えるともしかしたら次はもっと早く気付かれて……いや、今は考えるのはよそう。
「テメエの好きなやつって、朔間先輩のことだったんだな」
しばらく押し黙っていた晃牙くんが、呟くように言葉を落とした。「え」と私は目を瞬かせて晃牙くんの方へと視線を投げる。彼はそんな私を一瞥し、そしてまた視線を前に投げて「気がつかなかった」と言葉を続けた。うん、だって朔間先輩じゃないもの。そう返答したかったけれど、真剣なその横顔に思わず言葉を飲み込み、黙ってココアをすすった。
沈黙を肯定にとったらしい晃牙くんも同じように缶をすすり、息を吐く。もう淡くしか光らない息は、そよ風に簡単に攫われてしまうくらい頼りなかった。
「……悪かった。告白中だったんだろ」
「あ、ああ……」
あれか。先日の軽音部部室の出来事を思い出す。晃牙くんの入ってきたタイミングは……そうだ。朔間先輩が頭を下げて、すまない、と口にしているタイミングだっけ。ああ確かにそうともとれる。いや、晃牙くんの立場ならそう見えても仕方ないのかもしれない。
どうしたものかと悩みながら私はまたココアをすする。そういえば晃牙くんって私が誰かを好きってこと、覚えてたんだよね。ということは朔間先輩が好きって情報も引き継がれる可能性もあるってこと?
今まで禄に動かしていなかった思考を回転させる。どう答えるのが正解なのだろうか。違うと答えたら問い詰められたりするのだろうか。それとも記憶の引き継ぎに賭けて晃牙くんに告白でもしてみる? でも、その行動で次のループであからさまに避けられたら私は……。
「やめとけよ」
晃牙くんが口にした言葉に私は眉を寄せる。晃牙くんは私のその表情を見て「えっと、その、だな……」と気まずそうに言葉を落としながら視線を泳がせた。
「朔間先輩は……その、テメエをそういう風に見てねえし……その……まだ好きでも……」
「……? もしかして諦めろって言いたいの?」
「……いや、そんな単純な話じゃねえって分かってるけどよ……その……あいつよりもテメエをわかってくれるやつが、もっと……」
要領の得ない言葉に「晃牙くん?」と彼を呼べば、晃牙くんは何故か顔を真っ赤にしながら「だから!」と怒鳴る。彼の指が、もどかしそうにフェンスに触れる。指先に押され、フェンスが小さい悲鳴を上げた。しかし晃牙くんは困ったような、そして怒ったような顔をしながら「なんで、あの人なんだよ」と吐き捨てるようにそう呟いた。
「あの……私の好きな人、朔間先輩じゃないけど」
あまりの彼の勢いに、正直にそう白状すれば、晃牙くんは「あ?!」と声を上げて、そしてさっきよりも更に怒ったように「はあ?!」ともう一度大声を出す。階下まで聞こえているのでは無いかというその声量に、眉を寄せ目を閉じながら「うるさい……」と呟けば、晃牙くんは押し黙った。そしてしばらく黙った後「でも、この前の」と腑に落ちないように言葉を落とすので、私は肩を落としてため息を吐いた。
「あれはそういう話じゃないよ。内容は言えないけど」
「……そうかよ」
「で、なに。もし私が本当に朔間先輩に振られた直後ならかなり失礼な話だと思うんですけど」
「悪かったよ」
「ま、ココアに免じて許してやろう」
そう言って私はフェンスに背を向けてココアを口にする。ココアが温くなっているせいもあり、息を吐き出しても、もう白くは曇らない。
「誰なんだよ、テメエの好きなやつ」
「言ったら呼び出してくれるんだっけ?」
悪戯に笑えば晃牙くんは「やめろよ」と表情を曇らせる。「ごめんごめん」と私は小さく笑い、またココアに口をつけた。
「……言わないよ。どうせもうすぐ忘れちゃうんだから」
「忘れない」
その言葉とほぼ同時に、私は思いきり腕を引かれた。驚いて手を離してしまいココアの缶が宙を舞う。まだ中身のあったそれは飛沫を上げて、そして地面へと落ち、中身を零しながらこちらへと転がってくる。
「ちょっと」
「忘れるわけねえだろうが」
晃牙くんが肩に額を押しつける。彼の手から缶が滑り落ち、私の足下に転がった。こつん、と転がった缶同士がぶつかる。どうやらコーヒーを飲んでいたらしい。同じような色の液体が缶の口から流れ出し、茶色の水たまりを作った。
「忘れない」
何度も、刻むように彼はそう口にする。僅かに震える背中に手を回せば、彼は一度大きく身震いした。しかし、それだけだった。振り払うだとか、拒否する態度は見受けられない。
あやすように背中を叩けば、水っぽい鼻音が聞こえた。そうか、晃牙くんは泣いてくれるのか。もうそれだけで嬉しくて「泣かないでよ」と一歩彼に歩み寄る。晃牙くんは掴んでいた腕を放し、そのまま掴むように腰を抱いた。
「泣いてねえよ」
「はいはいそうですね……でも、ありがと。それだけで嬉しい」
「嬉しいとかじゃねえよ、テメエは、来年もここにいる」
「うん」
「俺様のプロデュースを途中で投げ出してんじゃねえよ」
「……うん、ごめ」
「ごめんじゃねえ」
顔を上げた晃牙くんの顔が勢いよく額にぶつかる。鈍い痛みに慌てて両手で額を押さえれば、目を赤らめた彼は「まだ、終わってねえだろうが」と笑った。
「終わらせねえ、絶対」