星に願いを_19
小さな『反抗』は、結果から言えばあの日だけだった。羽風先輩に第二案を募ったら呆れ顔で「また喧嘩したの?」と言われてしまったし(どうやら羽風先輩は件のことを家族との不仲と思っているようだ)自分自身では良い案は出そうになかった。晃牙くんはというと返礼祭を間近に控え、ユニットの事で大忙しのようだ。そういえば、そうだったよね。このイベントは、彼自身にとっての大きなターニングポイントだったはずだ。たまにこちらのことを気にして声をかけてくれるけれど「そんな場合なの?」と悪戯に笑えば「悪い」と一言置いて彼はそそくさとアドニスくんの元へと行ってしまう。これでいい。本来はこうあるべきなのだ。
ふと外を見れば梅の花ももう膨らんでいる。あれほど鋭かった冬の風でさえも、柔らかに変わり、どこか不明瞭な暖かさを携えて街を吹き抜けている。
もう春が来る。足音は随分と近い。
無事返礼祭が終わり、私は『デッドマンズ』の廃棄資料を受け取りに軽音部部室へやってきていた。イベントを終えてほんの少しだけ晴れ晴れしい表情を浮かべることが多くなった朔間先輩は、今日も変わらず私の訪問を快く受け入れ、そして棚に入れ込んでいた紙束をこちらへと手渡した。
「無事終わったようで」
「ああ、嬢ちゃんにも世話をかけたな」
「気にしないで下さい……私は、今の朔間先輩しか知らないので、あの姿は新鮮でした」
「おおそうか! 疲れるから、もうあまりやりたくないんじゃけど」
「それ、晃牙くんにばれたら怒られますからね?」
くすくすと笑いながら紙束をミーティングスペースの机の上に広げる。左隅にホッチキスの針が刺さっていることに気がついて、とらなきゃ、と爪でそれを引っかければ、朔間先輩は棚の引き出しからホッチキスを取り出し私に渡してくれた。お礼を伝え、ホッチキスのお尻部分で針を抜いていく。面白い作業では無いのに、先輩は隣で食い入るように抜けていく針を見つめていた。
「……すまなかった」
彼が言葉を落とす。私はその言葉の意図が理解できずに手を止めて彼を見上げた。先ほどまで朗らかに微笑んでいた彼の表情が硬く変わっている。紅の瞳は真直に私を見下ろし、長いまつげが僅かに揺れる。そしてもう一度「すまない」と口にするから、もしかして返礼祭の暗躍の事を言っているのだろうか、と私は慌てて首を横に振る。
「でも必要なことだったんでしょう? 先輩にとっても、晃牙くんにとっても」
そして逃げるように書類に視線を落とす。表紙にでかでかと押された『confidential』のスタンプは、当時書類を作成したときに私が押したものだ。晃牙くんたちと仲が良い分後ろ髪を引かれる思いもあったけれど、これを押す作業は偉くなった気がしてちょっと楽しかったっけ。
まだ束になってるそれを朔間先輩の方へと向け「ほら、これ押すのも楽しかったですし?」とスタンプを指さし笑えば、先輩はやはり険しい表情のまま首を横に振った。
「そうじゃない」
「……必要なことなんじゃ、ないんですか?」
「そうじゃない。そこじゃないんじゃ……我輩は嬢ちゃんのために、なにもしてやれなかった」
「私は朔間先輩から、たくさんのものを貰いましたけど」
「……いまの、嬢ちゃんにじゃよ」
言葉が空気に溶けるように、静かに響き渡る。彼が何を悔いているのかが分かり、返す言葉が見当たらない。呻くように小さく言葉を落とした私は力なく書類を持つ手を下ろし、そして眉を寄せて目を伏せる先輩をただただ見つめることしか出来なかった。
わかっていた、無断外泊程度で未来が変わらないことを。何か大きな変化――それこそ私が学院へ転入しなかったり、晃牙くんが学院を中退したりだとか、そのくらい大きなものじゃないと、おそらく未来なんて変わらない。
それでも彼らの作戦に乗り、お泊まり会をしたことを私は後悔していなかった。だって楽しかったし。今までになかったほど、晃牙くんと一緒にいれたし。だから、悲しくなんてない。ずっと諦めていた未来のかけらが、確かにこのループにはあったのだ。
「気にしないで下さい。先輩、今回私すごく楽しかったんです。今までに無いことがあったり、みんなが気がついてくれたり、それって初めてのことなんですよ?」
「……しかし」
「大丈夫です。私はまた繰り返すだけです。慣れてますし、また先輩や晃牙くんに会えると思うと、わくわくするんです」
紙を机に置いて先輩を見上げれば、悲痛そうに顔を歪めた朔間先輩がそこにはいた。悲しまないで欲しいと、私は机を強く掴む。あと一月経てば忘れ去られる存在になんて、心を痛める必要は無い。悲しいことじゃないんだ、これは。
開け放たれた窓から強い風が吹き込む。暖かく、少し甘い香りを携えたそれはもう春のもので、そしてこの香りが一番濃く、美しい季節には私はもういない。朔間先輩は風に踊らされる髪を整える事無くただじっとこちらを見つめていた。その瞳に私が宿るのもあと一ヶ月。そう思うと心がじくりと痛み出す。
それでも何かを言わなければと思い「へいきです」と私は笑う。平静に伝えたはずなのに、喉から出たその声は随分水っぽい音だなと思った。だってこんなの慣れているのに、何度も経験しているのに。胸が熱くて、視界が滲む。
「こわくないです」
言葉を口にする度、朔間先輩がぼやけて見えた。
「嬢ちゃん」
先輩が足早にこちらへと駆け寄り、手を差し伸べて――届く前に力なく下ろす。よかった。これで涙なんて拭われてたら、そのまま泣きついてしまうところだった。私は一つ鼻をすすり、自分自身で涙を拭う。
「大丈夫です、本当に」
そう言って力強く頷けば、朔間先輩は歯がゆそうに顔を歪め、そして頭を下げた。
「……すまん」
彼が頭を下げたとほぼ同時に、軽音部部室の扉が開く。そこには驚き目を見開いている晃牙くんの姿があって、いつぞやのあの――本来あるべきだったショッピングモールのイベント説明の頃の光景が脳裏に浮かんで、消えた。
朔間先輩も顔を上げて「晃牙」と言葉を落とす。晃牙くんは困ったように視線を泳がせながら「出直したほうがいいか」と口にする。聞き覚えのあるその台詞に、そんなとこまで一緒にしなくてもいいのに、と思いつつ、失われた選択肢はもしかしてこういった形で繰り返し帳尻を合わせるのかもしれない、なんてことを私は思った。そうしたら今までの『かけら』達に浮かれていた自分が随分馬鹿らしく思え、私はそそくさと紙の束を抱えると、首を横に振った。
「ううん、大丈夫。もう終わったので」
「嬢ちゃん」
「ごめんなさい先輩、変なこと言っちゃって……ありがとうございました」
一礼して扉を目指す。眉を寄せる晃牙くんの隣をすり抜ければ、通り抜けざまに「本当に、いいのかよ」と晃牙くんの弱々しい言葉が聞こえた。何のことを言っているのだろう。見当もつかなかったけど「大丈夫だよ」と言えば、晃牙くんはみるみる顔を曇らせて、そして朔間先輩と同じように泣きそうな表情を浮かべて、視線をこちらへと注ぐ。
二人してそんな顔をされると、なんだか今日が最後の日みたいじゃないか。もう一ヶ月もないにしろ、まだそれなりの登校日は残っている。卒業式もまだ終わっていないのに、お別れの雰囲気を出されたって、困るよ。
「まだ二人とも早いですよ。先輩だってあとちょっとの学生生活じゃないですか。最後くらい、楽しく過ごしましょう」
空気を変えるようにわざとそう明るく言えば、朔間先輩は「そうじゃな」と弱々しく笑ってくれた。しかし晃牙くんだけは神妙な顔つきでじとりとこちらを見て、そして苛立たしげに、一つ舌打ちをした。