星に願いを_18
壁を向いているから、今何時かはわからない。それでも彼らの密やかな攻防も鳴りを潜め、寝息に変わったからもう随分と時間が経ったはずだ。全くもって眠れない。どうやら晃牙くんは羽風先輩との攻防戦の後、壁側――私の背中の方を向いて眠ってしまったらしく、それに気がついてからは気が気じゃ無かった。ちらりと振り返れば、潜まった眉に規則正しい寝息。身体を起こし床に寝転ぶ三人を見下ろせば、皆一様に目を閉じて、寝息を立てていた。
「眠れねえのか?」
びくりと身体を震わせれば、晃牙くんがぐっとスウェットの裾を掴み引っ張った。私は黙って首を縦に振る。彼は少し悩んだ後、先ほどまで私が眠っていた場所を誘うように軽く叩いた。つかの間逡巡し、そして晃牙くんと顔をつきあわせるような形で寝転んだ。照れくさくなりほんの少し下――晃牙くんの胸辺りまで下がれば「変わんねえだろ」と彼の小さな笑い声が響く。
「楽しかったね」
「……ま、たまには悪くねえな」
晃牙くんがそっと背中に手を回す。ぴくりと身を揺らす私に「嫌なら拒めよ」とだけ言い置き、そしてあやすように緩やかなリズムで背中を叩いてくれた。どきりと心臓が高鳴る。目の前には彼の胸があり、ほんの少しだけ前に身を寄らせれば、そこに収まることも出来るだろう。
――でも。
彼は私のことを『友達』だと言った。それはきっと彼の本心であり、この世界でも変えようの無い事実だろう。だからこそ、分かっているからこそ朔間先輩の口車に乗ったのだ。それでもほんの少しだけ期待する自分がそこにいて、埋まらない溝に心が軋みをあげる。
寄ってしまえば、好きだと伝えてしまえば何かが変わるのだろうか。
「またテメエ訳わかんねえこと考えてんだろ」
「え、ええ? そんなことないよ」
「……ならいいけどよ。どうせ考えるなら楽しいことにしとけ」
「楽しいこと?」
「……未来にいけたら、何がしたい、とか」
したいこと。そういえばそんなこと、随分と考えていなかったように思う。未来へどうにかして行きたい事は何遍も考えたのに、その先のことなど歯牙にもかけなかった。
「テメエは、来年受験すんだろ」
晃牙くんの言葉に曖昧に返事を返しながら、私は朧気に高校三年生になった自分を思い描く。
受験。進路。昔――このループに巻き込まれていると知らなかった頃は、それなりに考えていた気がする。プロデューサーになるためにそれらしい大学を受ける。プロデューサーと一口に言っても「アイドルをプロデュース」したり「番組やライブなどの企画をプロデュース」したり様々な種類がある。今は双方を総合的に勉強させてもらっているけれど、いつか、遠くない未来で私はそれを取捨選択しなければならない。
そんなこと、随分と忘れていた。私の手の中に未来が当たり前のようにあって、そしてそれを思い描くなんて、許されるのだろうか。
晃牙くんを見上げれば、彼は不思議そうに私を見下ろした。何度も瞬く瞳とともに「なんだよ」と彼は口にする。
「……いや、したいことなんて、随分と考えてなかったから」
「あ? んなことでどうすんだよ。春になって困るぞ」
「そうだね」
でもそれは、随分と贅沢な『困り』のように思えた。小さく笑えば、小馬鹿にされていると思ったのか晃牙くんが眉を寄せる。
「まさかないってことはないだろうな」
「そんなことないよ、将来でしょ? 折角いろいろ勉強したから、プロデューサーになるために勉強したいなあ」
「テメエは面白みねえな。他にはないのかよ」
「他に?」
晃牙くんの言葉に、私はほかに、と心の中で言葉を繰り返す。ふと浮かんだ可愛らしい願いにきゅっと口を結べば、どうやら見ていたらしい晃牙くんが「言えよ」とせっつくように言葉を吐いた。
「……笑わない?」
「笑わねえよ」
「……あのね、お嫁さんになりたいなって」
晃牙くんはその言葉に目を丸くした。そして何故か苦々しく顔を曇らせて、背中を叩く手を止めた。
「……好きな人がいるって、言ってたもんな」
その言葉に今度は私が目を瞬かせた。
「いつ?」
「……いつかはわからねえけど、テメエが、最後にそう言ってたじゃねえか」
「ああ」
そういう誤魔化し方を、そういえば『前回』したような気がする。全く、こういうことも覚えているのか。尚更もう、望みなんてないじゃないか。小さく息を吐けば、背中に添えた晃牙くんの手に、僅かに力が入った。
「お前まさか、願い事って」
彼の目が大きく見開く。そういえばすっかり忘れていたけれど、大神晃牙という男はたまに、野性的に勘が鋭いことがある。誤魔化したってきっとすぐにばれるから、私は曖昧に微笑みじっと彼を見上げた。晃牙くんの顔に何故か悲しみが広がり、今にも泣き出しそうな顔で「――お前は」と言葉を落とす。悲痛なそれに、晃牙くんがそんな顔する必要ないのに、とずきりと心が痛んだ。
「だから、叶わねえのか?」
「馬鹿みたいって、笑ってもいいよ」
「笑えるかよ」
吐き出すようなその言葉とともに、背中に回された彼の手がほんの少し蠢いた。これ以上話したら私の方が泣きそうだからと「ごめんね」と呟き彼に背を向ける。瞬けば、ぽろりと一筋涙が零れた。
そうだ、叶わないのだ。こんな願いなど。叶わないなら願わなければよかった。願う前にちゃんと行動しておけばよかった。
目を閉じて口で小さく息を吸えば布擦れの音が聞こえた。ほんの少し重くなる掛け布団。私の掛け布団がほんの少しめくり上がり「悪い」と彼の一言が聞こえたかと思うと、そのまま私は晃牙くんの胸の中に引きずり込まれていた。
「……こう」
「何も、言うな」
ぎゅうと、腰元に回された手が強まる。ぴたりとくっついた背中がひどく熱い。これは、同情なのだろうか。私への哀れみなのだろうか。たとえそのどちらであっても、決して恋慕から来ているものではないと分かっているから、残酷で暖かな彼の優しさに抱かれながら私は目を閉じた。
「ごめんね」
ごめんね。巻き込んでごめんね。好きになってごめんね。春になったらちゃんと消えるから。この記憶だってきっと、消えてくれるから。
だからどうか、今だけはこのままで。
――どうか、神様。