星に願いを_16

「連絡しとけ」

 そう晃牙くんが口にしたのは、午後八時を回った頃だった。

 晩ご飯は銘々買ってきたものを、それぞれが食べたいようにつついて食べた。シャワーも順番に借りることとなり――先輩方を差し置いて申し訳なかったけれど――先にシャワーをいただいた私は、借りた晃牙くんのスウェットに着替え「少し涼みたいので」と理由をつけてベランダへと出た。絡みつくような心配そうな視線が心苦しかったけれど、少し一人になりたかったのだ。
 ガラス戸を開ければ夜風がひゅるりと身を包む。部屋の、暖めた空気を逃がさないようすぐに戸を閉めて息を吐けば、白く輝く息が夜闇へと溶けていく。

 ほんの少しさびた物干し竿。黒地にヒョウ柄のサンダル。サンダルに足を通し一歩踏み出せば、ぎしりと床板が響いた。人一人分の幅、数歩歩けば端にたどり着いてしまう広さ。むき出しの室外機はエアコンをつけているからか低いうなり声を上げながら動いていて、その隣に座り込めばさらにまた、ぎしりと音が響いた。

 住宅街だから街灯が多く、星はさほど見えない。だけどそこが安心すると、私は小さく息を吐く。
 幹線道路が近いのだろう、家路を急ぐ車達がひっきりなしに走る音がよく聞こえる。沢山の人が、この瞬間を生きている。不可逆の流れの中で、懸命に生きているのだ。当たり前の事なのに、なぜかそれがとても尊く、そして随分遠いものと思えて膝に額を乗せた。

 せり上がってくる熱い何かを飲み込めば、がらりとガラス戸が開く音がした。晃牙くんは私の携帯を投げてよこすと戸を閉めて――そして先ほどの言葉を口にしたのである。

「んな気にするならしとけって」
「でも、わるいことって」
「まだ春まで時間もあるだろうが。一回くらい失敗しても問題ねえよ」

 そろそろと携帯を開けば家族から心配する旨のメッセージが多く入っていた。晃牙くんは私の隣に歩み寄り、そして寄り添うようにその場に座り込む。冷えた冬の空気に彼の体温が混じる。夜風を理由にほんの少しだけ晃牙くんに寄れば、彼は拒絶することなくただ黙って前を見つめていた。

『遅くなってごめんなさい、今日は友達の家へ泊まります』

 そう連絡すればすぐに母親から早く連絡しろ、や、晩ご飯作ったのに、と恨み言がつらつらと送られてくる。晃牙くんは画面を覗き込み「いい母親じゃねえか」と小さく笑う。私はほんの少しだけ涙ぐみながら「うん」と呟く。

「でもね、このままだと、お母さんもお父さんも弟だって、みんな私のこと、忘れちゃうんだよね」
「そうならないために頑張るんだろうが」
「うん」

 ぽろりと頬に涙が伝う。我慢しようと思っていたのに、一度許してしまうと次から次へと涙がぼろぼろと流れて止まらない。ずびりと鼻を鳴らして「晃牙くん」と彼を呼べば、晃牙くんは手を私の肩に添えて、軽く引き寄せた。驚いて彼を見れば、先ほどまで前を見ていた晃牙くんが真剣にこちらを眺めている。

「晃牙くん……?」

 息が詰まりそうなその視線に目を瞬かせれば涙がまたぽろりと零れた。満月のような瞳がもどかしく細まる。どくりどくりと心臓が少しずつ速度を上げる。晃牙くんの手に力が入る。捕まれた肩が、熱い。徐々に縮まる距離と――。

「はいそこまで! シャワー空いたよ、晃牙くん!」

 そうして乱暴な音とともに開かれたガラス戸に、慌てて私たちは距離をとった。不機嫌を顔に貼り付けた羽風先輩は「シャ・ワ・ア・あ・い・た・よ」とわざとらしく一音一音区切りながらじとりと私たちを睨む。
 晃牙くんは「うっせえ一回言えばわかんだよ!」と憤然と立ち上がり、そして私の頭をはたくと「テメエも早く入れ!」と声を荒らげる。

「や、八つ当たりだ!」
「うっせ、湯冷めすんだろ!」
「これ。二人ともご近所迷惑じゃよ、はやく入りなさい」

 朔間先輩が羽風先輩の後ろからひょこりと顔を出した。朔間先輩が言うなら、と渋々立ち上がり、私も晃牙くんに続いて部屋の中へと入った。
 夜風が身に染みていたのか、部屋の暖かさにぶるりと身が震える。どうやら私が外にいる間に先輩達は寝支度を整えていたようで、床にはテトリスのようにみっちりと布団が敷き詰められていた。床に三人、ベッドに二人。枕位置を眺めていると「嬢ちゃんはベッドな」と朔間先輩が朗らかに笑う。

「一応くじ引きで決めたんじゃが……まあ、わんこやアドニスくんの隣が一番安全じゃろう?」
「朔間さんさっきの見てたでしょ。晃牙くんの隣が一番危険だって」
「……あの、さっきの、その……なんで気がついたんですか?」
「なんでって、カーテンからシルエット丸見えだったからね? 君たち」
「ぎゃー!」

 声を上げればアドニスくんと遊んでいたらしいレオンが何事かと吠えながらこちらへと駆けてくる。振られてしまったらしいアドニスくんが不服そうに眉を寄せて「騒ぐと近所迷惑だと言われたばかりだろう」と口をとがらせ、反論できない正論に私はきゅっと口を結んだ。

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