星に願いを_08

 彼女が帰ったあとの部室は妙な静けさに包まれていた。妙な頭痛は治まったものの胃の中を覆う吐き気は未だ健在で、今すぐベッドで横になりたい一心で「帰る」と晃牙はそう呟き椅子から立ち上がった。床に下ろしていた鞄がやけに重い。気怠い体は動かすのも随分億劫に思え、このまま保健室に向かってもいい、なんて考えながら覚束ない足取りで扉を目指す。

「なら我輩も帰るか」

 背後から棺桶が軋む音が聞こえる。振り返ればそこには鞄を手にした零が立っていて、彼は微笑みを浮かべると猫背のまま立ち尽くす晃牙の隣まで歩み寄った。見上げた彼の瞳は、なぜか嬉しそうに細まっていて、晃牙は嫌な予感を感じつつも「家に帰るんだよな?」と当たり前のことを口にすれば、零は「うん」と言葉を落とし、そしておもむろに晃牙の肩を抱き寄せた。随分と久しぶりなその強引な所作に驚きつつも零を見れば、彼はあの頃――やんちゃだった頃と同じ悪戯な光を瞳に宿し、にこりと微笑んだ。

「そうじゃよ。わんこのおうちで、お泊まり会じゃ」

 大体一人暮らしの高校生の家にもう一組布団があるわけもなく、しかし寒空の中雑魚寝をしろというほど晃牙は冷徹な男ではない。家に帰れと散々吠えたにもかかわらず零はひょうひょうとそれを笑顔で躱しながら結局晃牙の家までついてきてしまったので、荷物を置いたその足で最寄りのホームセンターで布団を一組購入する羽目となってしまった。

「体調はどうじゃ?」

 そうして買いたての布団を適当にまとめて一息ついたところで、零はそう尋ねてきた。重労働をさせておいて、とも思ったけれど、彼の一言に気分の悪さも気怠さも引いていることに気がつく。膝の上でじゃれつくレオンをなでながら微笑む零に「……もう悪くねえよ」といいベッドに座り込めば「そうか」と嬉しそうな声が耳に届いた。零の膝の上で楽しそうにレオンが彼の腕めがけて後ろ足を蹴り出している。零はそれに気を悪くするでもなく「元気じゃのう」と声を弾ませながらレオンの足蹴りを受け止めていた。

「……嬢ちゃんの件じゃが」

 レオンの息遣いが楽しそうに部屋中に広がる。晃牙には視線もくれず、彼はレオンに目を落としながらそう呟く。しかし見ていないとわかっていても、その言葉に居住まいを正してしまう。ほんの少し背筋を伸ばしながら「ああ」と言葉を落とせば、零はレオンをなでながら「全てが本当ならば」と言葉を落とした。少し前に聞いた言葉と同じフレーズなのに、妙に真剣味を帯びて聞こえるのは、先ほどの件があったからだろうか。
 張り詰めだした空気の中、レオンだけが無邪気にはしゃぎ回る。一度零の腕をぽこんと蹴ったところで彼は膝の上から飛び降り、そして窓際まで歩いて行ってしまった。その後ろ姿をしばらく眺めていた零はレオンの毛だらけの腕を下ろし、そして晃牙を見つめる。

「いろいろと確かめる必要がある。奇妙な夢、強い既視感。全てが繋がるならば、それはわんこだけが感じているのか、それともほかの誰か――例えば嬢ちゃんも同じように感じているのか、だとか」
「……そうだな」
「ところでわんこのその既視感というのは、確実に当たっているものなのかえ?」

 零の言葉に晃牙は言葉を止める。昨日の夢にはアドニスはいなかったし、夕方のそれはおそらく自分の位置――一瞬見えた光景はおそらく零と彼女が話しているところに自分がやってきて、実際は零と自分が話しているところに、彼女がやってきた――が、違う。しかし彼女の口にした言葉はほとんど意味合い的には同じだし、全く違うとも言い切れない。

「……ところどころは、違う」
「ほう、例えば」
「……昨日の夢ではあいつと俺が二人で帰ってたし、今日のあれは、なんつうか、てめえとあいつが話しているところに俺がやってきた、ような、気がする……」

 本当のことを口にしているはずなのに、常識から大きく外れたその言葉に妙に気恥ずかしさが混じる。自分の勘違いなんじゃないだろうかと、口にするたび気持ちが振れる。
 馬鹿馬鹿しいと思いながらも零を見れば、零は真剣な表情で「ほう」と言葉を落とし、考え込むように口を閉じた。

「細部は多少違っていても、大まかには合っている、と」
「ああ」
「……のうわんこ。わんこはどうしたい?」
「どうしたい?」

 零の言葉に眉を寄せれば、彼は「ああ」と一度頷く。

「例えば既視感通りに未来を進めるのであれば、そのまま傍観しておればよい話じゃろう。多少気味が悪いとは思うが、予知夢と考えたらそこまで邪険にするようなものでもあるまい?」

 確かに。晃牙は視線を床に落としながら思考を巡らせる。頭痛の件は話していないから身体的なそれを除けば『未来がわかる』点においては悪くないかもしれない。――ただそれを受け入れるのであれば、体調に来す問題を打破しなければならないが。それさえなんとかなったのならば、このままでいいのだろうか。
 脳裏に今日の朝に見た夢がよぎる。このまま未来を進めていけば、少なくとも晃牙は彼女と『別れる』こととなる。別れるってなんだ? 引っ越しでもするのか? まだはっきりと思い出せる夢では、晃牙も彼女も同じ青色のネクタイやリボンをしていた。ということは二年生の終わり――あと数ヶ月後の予知夢となる。

 あのとき感じた自分の憤りをまだ覚えている。『ああだめだった』そうだ、俺はそう思ったんだ。晃牙は強く拳を握りしめる。春の匂いが混じる空気の中、俺はなにかを変えたくて、でも変えられなくて、その日を迎えてしまった気がする。彼女はそれを受け入れていて、そしてまた『友達』になれるのが嬉しいと、春にまた会おうと、そう告げたのだ。

「……いや」

 拳に力が更にこもる。顔を上げれば、零は変わらず晃牙を見つめ続けている。

「変えなきゃいけない、気がする」
「ならば、やることはひとつじゃな」

 零は微笑むと両腕を膝につけ、姿勢を崩す。窓際に寄っていたレオンが一度晃牙の座るベッドを見上げて、そして脇を通り過ぎてまた零の膝に寄った。腕と脇のわずかな隙間に身をよじらせて零の膝の上に降り立った彼は、値踏みをするように幾度か足を踏みつけ、そして落ち着けるところにその身を下ろした。
 零はそんなレオンを撫でながら晃牙を見つめる。

「同じ過ち――過ちと表現してよいかわからんが、繰り返さないためにも『なぜ、どうしてそこに至ったのか』を明らかにせねばならん」
「……ああ」
「おそらくそれはわんこだけでは無理じゃ。当然、我輩にもわからん。可能性があるとすれば、密に関わっているであろう嬢ちゃんに協力を仰ぐ他ないじゃろう」

 そして零は言葉を切り、その手をレオンの背中に乗せる。レオンはほんの少し顔を上げ零を見て、そしてそのまま頭を伏せ、寝入る姿勢をとった。

「人生は選択の連続じゃ。大なり小なり自分がその行動をすると選択をして、そして他者の選択と重なり、織り合い、編み上がるものじゃ。我輩の予想が正しければ、嬢ちゃんはその『未来』を知っている。し、おそらくわんこの予知夢が全て正しければ――嬢ちゃんはその未来通りに、ことを進めようとしている」

 零の言葉に晃牙は息をのむ。確かにそうだ。自分が見た夢で違っていたのは彼女以外の要因――例えば自分だったり、アドニスだったり――で、そして自分の勘違いではなければ、彼女はそのことにひどく驚いていたような、気がする。

 だめだ、だんだん混乱してきた。キャパシティを超える話に晃牙が顔を顰めれば零は苦笑を浮かべた。「ここらあたりにしておくか」と言うと零は膝の上からレオンを下ろし、立ち上がる。突然消えた熱に起きてうなり出すレオンの頭を撫でた彼は、コンビニで買ってきた夕飯を取り出して机の上に広げた。

「しかし、それでも嬢ちゃんに協力を仰ぐ他ない。おそらくつっぱねられるか、ごまかされるかはするじゃろうが、それでも」

 零の言葉が重く心に響く。見上げれば、零はふっと微笑み、そして晃牙の元に歩み寄ると、レオンにしたときと同じように彼は、晃牙の頭を幾度か撫でた。

「不安そうな顔をするな。大丈夫じゃよ、我輩もいるし、疑問に思っているアドニスくんにもわけを話せば手伝ってくれるじゃろう。薫くんも、ちゃんと話せば手伝ってくれるじゃろうし」
「……うっせえよ」

 照れ恥ずかしくて視線をそらせば、零は楽しげに笑った。「なら晩飯にしよう」と晃牙の肩を軽く押して、そして夕食を広げたテーブルに向かう。
 ベッドの下ではうめいているレオンの姿があって、こいつにもご飯を出さないと、と晃牙はようやく立ち上がり、そしてドッグフードのある棚に向かって歩き出す。うなるレオンは不機嫌なまま、しかし素直に晃牙について歩いた。

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