星に願いを_03

 六時を過ぎた空は既に藍色で、満天の星空が広がっていた。吐き出す息も既に白く、マフラーを巻いていても隙間風が肌を刺して身震いを誘う。北風に吹かれてぴりぴりと僅かな痛みを覚える頬を、首をすぼめてマフラーの中に入れ込めば「寒いな」とマフラーすらしていないアドニスが呟く。声と共に吐き出された息は同じように白く濁るのに、なぜこいつは平気なのだろうか。

「冬だもんね」

 彼女も息を吐き出す。白く濁った息は風に攫われてどこかへと消えてしまった。随分と軽い肩に心許なさを覚え「荷物返せよ」とアドニスに言えば、自分の荷物と晃牙の荷物、そして彼女の紙袋を半分持ったアドニスは首を横に振るった。その顔には強固な意思が宿っており、晃牙は「ケッ」と言葉を吐き捨てると近くにあった石を蹴り上げた。石は数回跳ね上がり、そのまま道端に転がり止まる。大股でそれを追い越すように歩けば「たまには休むのも必要だよ」と彼女は朗らかに笑った。

「休むつったって、家に帰ったら寝るだけだろうが」
「まあそうなんだろうけどさ……」

 彼女が言葉を濁し「素直に甘えればいいのにねえ」とアドニスに笑いかける。アドニスも苦笑を浮かべながら「そうだな」と彼女に微笑み、その表情のまま「大神には世話になっている。たまには頼ってくれ」と晃牙の鞄を担ぎ直した。
 そこまで言われると無碍に出来ないが、やはり何も持っていないのは居心地が悪い。隣を歩く彼女のぶら下げた紙袋をぶんどると「あっ」と小さな彼女の声。露骨に歪む顔に「素直に甘えればいいだろ」と先程の彼女の言葉を真似れば、彼女は悔しそうに少し顔を歪ませた後「ほんっと可愛くない」と言葉を捨て、早足で歩き出す。
 数歩前を歩く彼女の後ろで晃牙とアドニスは顔を見合わせた。アドニスは「お前達は揃って素直じゃないな」と小さく笑い、そして大股で歩く彼女を追いかける。はいはいどうせ素直じゃないですよ。心の中で悪態を吐きながら、晃牙もまた、二人の背中を追いかけた。

 もうすぐ夕食時なのか、街の至る所には美味しそうな匂いが蔓延していた。晩飯を適当に見繕って帰るか、とも思ったけれど、二人に今日の献立を知られるのもあまり面白いものではないので、レオンの散歩ついでに買いに行くか、なんて考えながら彼女らの隣を歩く。目の前には濃紺の空。大通りから外れたからか、それとも街灯がそこまで明るくないからか。目の前の空は一等に星が輝いている。

 人気の無い道を歩きながら、晃牙はアドニスと彼女の談笑に耳を澄ます。時折振られる言葉や、からかえそうな言葉が聞こえたら拾い上げて会話に加わるけれど、積極的に二人の会話に加わろうとはしなかった。機嫌が悪いわけではない、考えたいことがあったからだ。
 今日のあれは一体何だったのか。そして先程は気にもとめなかったけれど、彼女のアドニスに対する態度も随分とおかしいように思う。だけどどれも決定的ではない。あのブラックアウトだって体調が悪かった、で片付く代物だし、彼女の態度だって機嫌が悪かった、で完結してしまう。
 いつもなら気にもとめないような事柄なのに、どうも釈然としない。釈然としないけれど、考えても答えが出そうになかった。

 続くようなら続くようなら病院に行きなよ、との羽風先輩の言葉を思い出して、面倒くせえなあ、と晃牙は息を吐いた。曇る息は後方に流れて消えていく。寒さに慣れた肌に、もう刺す痛みもない。

 そんな中、不意に隣から会話が止まる。と、ほぼ同時に彼女が立ち止まり急に空を見上げだした。その姿に晃牙もアドニスも、揃って足を止める。

「あっ」

 彼女が小さく呟く。その瞬間に横切る一閃の流星。

「流れ星か」

 アドニスが目を丸くしながら呟く。晃牙も一瞬にして消えてしまった軌跡を眺めながら「すげえ」と素直に言葉を落とした。そして「久しぶりに見たな」と興奮を滲ませるアドニスの声にそちらを向けば、興奮からは随分ほど遠い、硬い表情を浮かべて空を凝視している彼女が視界に入った。普段ならうるさい程騒ぐ彼女の口は噤まれ、ただ空を眺め続けている。その瞳に嬉しさは微塵にも滲んではいない。
 彼女の異様な表情にアドニスも困惑の色を滲ませてこちらへと視線を投げた。「願い事はできたか」と俺がそう口にすれば、彼女は我に返ったように、表情を綻ばせ「できたよ」と声を弾ませた。

「(願い事って顔じゃなかっただろ)」

 晃牙はそう心の奥底で悪態を吐く。やっぱり、何かがおかしい。しかし何がおかしいのか、的確に表す言葉が出てこない。普段ならもっとはしゃぎ回るだろうが。すごいねって、願い事した? なんて一番こいつが口にしそうなものなのに。
 晃牙は脳裏に嬉しそうに跳ね上がる彼女の姿を描く。偶然見上げた空に星が流れ、楽しそうに顔を綻ばせる彼女。何を願ったかを尋ねれば、彼女は『願い事、口にしたら叶わなくなるんだって』と微笑む。しかし言葉とは裏腹に言いたい欲が明け透けに見えている彼女に俺は――俺は?

 まるで見たことのあるような鮮明な映像と共につきりとまた頭が痛む。なんだってんだ、これ。小さく疼き始める頭痛に顔を歪めながら、彼女らの会話に耳を澄ます。

「何を願ったんだ?」
「うーん……ねえ、アドニスくん知ってた? 願い事、口にしたら叶わなくなるんだって」

 彼女の一言に強烈な既視感を覚える。しかしそれは一瞬で「そうなのか?」と素直に首を傾げるアドニスに彼女が「そうだよー」と肩を小突く頃にはその感覚は引いていた。背中に嫌な汗が流れる。どうやら今日は早く寝た方がいいようだ。

「……でも、願い事が叶うってなんなんだろうね」

 彼女が歩き出す。アドニスも同じように歩き出す。出遅れた晃牙は二人の少し後ろをついて歩く。気持ち悪い。言葉に出来ないあの奇妙な感覚が晃牙の輪郭を犯し、じわじわと内部に侵食している気分だ。

「そのままの意味だろう?」

 現実味がだんだん薄くなっていく。まるで夢の中にいるようだ。背景がぼやけ、アドニスの姿も曖昧になり、しかしなぜか彼女の後ろ姿だけははっきりと見えた。気味の悪いその感覚に晃牙は立ち止まり、目を閉じて、そして勢いよく首を横に振るう。恐る恐る開けば、ちゃんと輪郭のはっきりした街の姿と、小さくなるアドニスと彼女の後ろ姿が見える。

 置いて行かれないように早足で彼女の隣に立ちその表情を盗み見る。世間話をするように朗らかに微笑んでいるけれど、唇は僅かに震えていた。肩にかけている鞄のヒモを両手に持つ指先が、力を込めているのか白く変色をしている。

「例えば、辛くても叶うまでずっと追いかけなきゃいけない夢って、それって夢であるのかな、とか」
「……アイドル活動のことを言っているのか?」

 アドニスの言葉に彼女ははっと顔をあげる。そして狼狽したように「違う、そうじゃなくて、アドニスくん達のことじゃなくて!」としどろもどろに言葉を放ち、そして「……ごめん、言葉が悪かった」と項垂れた。
 アドニスはそんな彼女の慌てっぷりに小さく笑い「わかった、気にしていない」と微笑むと軽く彼女の頭を叩く。それでも彼女は申し訳なさそうに「ごめんね」と言い、こちらを向いて「晃牙くんも、ごめん」と言った。

「気にしてねえよ」

 言葉と共に目の前の空気が白く曇った。冬の空気は澄んでいるはずなのに、なぜか晃牙の周りには重苦しく纏わり付くようなそれが漂っているような気がしてならない。なんなんだこれは。一体、なんだってんだよ。

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