大嘘つきの大行進_06

 散歩へ行かないと気がついたレオンは、暫く晃牙くんの周りをうろうろと回っていたのだが、いつものように構ってくれない事を知ると、重い足取りでその場を後にした。ゆりゆりと揺れる彼のお尻は意気消沈しているにも関わらずとても可愛らしい。にやけそうな頬の内側を噛み抑えている私の隣でレオンを眺めていた晃牙くんは、一つ息を吐くと彼から視線を逸らしベッドへと向かった。

 晃牙くんの部屋は、私が想像していたよりも随分とこざっぱりしていた。よく見る異性の部屋――といっても弟の部屋くらいしかないのだけれど――の乱雑さはなく、全ての物がきちんと所定の位置に納まっているような、彼の生真面目さがにじみ出るような部屋だった。

 いつも晃牙くんはここで過ごしているのか。ベッドの隣でしゃがみ込み、鞄とビニール袋を下ろせば、部屋に漂う彼の香りに気がつく。普段は薄く、彼から香る程度のそれが、今ここに溢れんばかりに満ちている。
 気付いてしまったら、意識をしてしまう。高鳴る鼓動を抑えようと目をつぶれば、敏感になった聴覚が心臓の音を拾う。まるで耳元にそれがあるかのように、早く、大きく、うるさい。

「なんかあったか?」
「ん?! なにもないよ」

 私が彼の方へと顔を上げれば、マスクの上からでも分かるくらい頬を赤らめた晃牙くんが、ベッドの上に座り込んで私を見下ろしていた。どうやらずっと下を向いていたことが気になったらしい。笑って誤魔化しながら立ち上がれば、彼の視線も伴うように上へとあがる。いつもよりぺたんこに萎んだ髪の毛。鋭い眼光は鳴りを潜め、まん丸い、満月のような瞳がただじっと私を見上げていた。

「飲み物、飲む?」
「ん」

 袋からペットボトルを取り出して、晃牙くんに差し出す。彼は受け取るでもなく差し出されたそれにぴたりと頬を寄せた。冷たさが気持ちいいのか、目を細めて擦り付けるように頭を動かす。
 ペットボトルの結露のせいか、それとも元々かいていた汗なのか、彼の頬に張り付く銀色の細い髪の毛に気がついて、心がまた軋みを上げた。
 聞こえるんじゃないかと思うくらい際限なく高鳴る鼓動に耐えきれなくなり、私は慌ててペットボトルを彼から引き剥がした。熱のせいで潤んだ瞳が、忌々しそうに私を睨む。

「んだよ」
「冷却シートも買ってるから。これは飲むようです」

 平静を装って私はペットボトルのキャップを緩めた。ペットボトルの表面が、彼の熱をほんの少しだけ吸い込み仄かに暖かい。意識しないように努めて彼にそれを差し出せば、晃牙くんは不満そうに受け取って、一口、飲みこんだ。そして彼は目を細めて、そのままキャップを閉め、ペットボトルごと布団へと倒れ込む。

「だりい……」

 そう言って、枕元にペットボトルを倒し晃牙くんは寝転びながら私を見つめる。未だ袋に入りっぱなしの食料達を思い出して「何か食べれそう?」と尋ねれば、ふるふると彼は首を横に振った。中途半端にかかった布団を被せ直しながら「冷蔵庫で冷やしてもいい?」と尋ねれば、晃牙くんは黙って頷いた。

 そして眩しそうに細まる彼の瞳。これは長居しないほうがよさそうかも。私はしゃがみ込んで袋から冷却シートの箱を取り出し、開けて一枚取り上げる。床に膝立ちをして彼の顔をのぞき込めば、ほんの少し、晃牙くんの顔が強ばった。でも、抗う素振りはない。
 そろそろと手を伸ばし、彼の垂れた前髪を少しだけ上にずらす。そこで、額も汗に濡れていることに気がついて私は冷却シートを貼ろうとする手を止めた。

「ハンカチで額、ふいていい? まだ使ってないから汚くはないよ」
「ん」

 ポケットからハンカチを取り出してそっと額にあてがう。できるだけ力を入れないように抑えてハンカチを外して、そして少し身を乗り出して彼の額を見つめた。赤らみから想像はしていたけれど、やはり少し熱が籠もっているようだ。解熱剤、買って置いて正解だったな。

「……お前さ」
「うん?」
「他のやつにも、こういうことすんのかよ」
「皆は実家に住んでるでしょ?」
「そう言う意味じゃねえよ」

 冷却シートのフィルムを剥がしながら晃牙くんを見れば、彼は口を尖らせて私を睨んだ。熱で潤んだ瞳には力なく、いつもより迫力は半減だ。

「だから、もし同じ状況で……一人暮らしで風邪引いているやつがいたら、こうして来んのかって聞いてんだよ」
「うーんどうだろうね。でも、今日は朔間先輩からの指示があったから来ただけだよ」
「……よかったな」
「なにが?」
「予行練習できて、よ」

 可愛くないその物言いに、予告なく冷却シートを貼ってやれば「テメエ!」と晃牙くんは唸りを上げた。だってそんな言い方、ちょっとないじゃんか。

 何も言わない私に晃牙くんもその先の文句を飲み込んで、そしてまた私を見つめる。抑えていた前髪から手を離してそのまま軽くなでつければ、彼は気持ちよさそうに目を細めた。その所作があまりに可愛らしくて、私はそのまま手を滑らせて彼の頭を優しく数度撫で続ける。晃牙くんは驚いたように目を丸めて「……んだよ」と照れ恥ずかしそうに布団を口元まで被った。

「つうか気安く触ってんじゃねえよ」
「うん」

 それでもやめない私の手を、布団から伸びた彼の手が捉える。撥ね除けられると思っていたのだが、彼はそのまま私の手を握りこむと布団の中へ。引っ張られるようによたよたと彼に寄れば、彼は布団の中で私の手を握った。その力は振りほどくに易い程、か弱い。しかしどうにも振り払えないなにかがあった。
 暖かい布団の中で、私はその手を握り返す。

「晃牙くん、あのね」
「なんだよ」
「私ね、ほんとは羽風先輩のこと、好きじゃないんだよ」

 晃牙くんはゆっくり瞬き、そして呆れたように「今言うのかよ」とぽそりと呟いた。確かに風邪っぴきに伝える情報でもなかったか、と小さく笑えば、彼は布団の中で私の指に、自分の指を絡ませた。弦を弾いて厚くなった指先が、私の手の甲を滑る。

「……知ってた」
「そう……」
「でも、その続きは聞かねえ」

 明らかなその拒絶の言葉に、私は繋いでいた指を緩めた。が、彼の指が私の手の甲をえぐるように掴み、その場に留まらせる。

「晃牙くん?」

 私は戸惑いの声を上げた。晃牙くんは何も言わない。

「……聞かねえ」

 彼はもう一度言葉を繰り返した。その言葉の真意を探るのが怖くて、私はただ閉口し、じっと晃牙くんを見つめた。
 言葉とは裏腹に強くなる指の力。それは彼が寝付くまで、ずっとずっと、繋がれていた。


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