「キレイだ。」_03
晃牙くんから着いた旨の連絡が届き、彼女を揺り起こせば、彼女は大きな欠伸を一つ漏らして一度頷いた。その後くしゃみを漏らすので、脇に置いておいたマフラーを彼女の首に巻いてやる。まだどうやら寝ぼけているらしく、彼女はマフラーに顔を埋めて嬉しそうに「あったかい」と漏らした。まさかこの無防備な姿を会議室で晒してないよね? ぬらりと燃え上がる嫉妬の念を振るい落として、電気ストーブの電源を切る。「随分と手慣れてますね」
「最近ずっと来てるからね、はいこれ俺の連絡先。ちゃんと帰れてるか心配だから、帰ったら連絡してね?」
「はあい」
連絡先を書いた紙を受け取り当たり前のように名刺入れにしまいこむ彼女を見て、覚醒していたら受け取って貰えなかったよなあ、と思い、笑う。寝起きの彼女は思考が回っていないせいか、とても素直だ。変わらないその性質に頭を撫でてやれば「うう」と呻きながら彼女は一つ欠伸を漏らした。
「じゃあ俺帰るから」
「ああ、見送ります」
「いいよ、ここで寝てな」
「……いや、起きます。見送るまでがお仕事です」
そうして欠伸を漏らす彼女に「お仕事ね」と笑う。眠たい彼女を連れ回すのも気が引けるけれど、夜風に当たらせて起こすほうがおそらくは良いだろう。絶えず漏れる大きな欠伸に小さく笑い、俺は休憩室から飛び出す。彼女もヒールを打ち鳴らしながら後を着いてきた。
幸い廊下には誰も居なかった。先ほどまで仕事をしていたスタジオの方へと目をやれば、締め切られたドアの上部にオンエアマークが煌々と灯っている。後ろを着いてくる彼女は大きな欠伸をかみ殺しながら「きょうはさつえいみたいですよ」と言い、そしてもう一度欠伸を零す。
「そうなんだ。俺もきみが携わる番組に出てみたいなあ」
「羽風先輩もそういうこと言うんですね?」
「も?」
「この前久しぶりに鉄虎くんと会って、もう一度一緒に仕事をするのが夢だったッス! って言われたので」
学院時代に幾度か交流のあった懐かしい後輩の姿を思い浮かべる。ああそうか、あの子も無事に芸能界に入ることができたのか。連なるように浮かぶもりっちや奏汰くんの顔。あそこも俺たちと一緒に仲良く後輩と活動をしているのだろうか。今度また、聞いてみよう。
「夢かあ」
そりゃあ君とクレジットが並ぶと嬉しいけれど。曖昧に笑い自動ドアを彼女と共にくぐる。廊下とは比にならないくらいの冷風に思わず二人して身を縮こまらせた。彼女はどうやら意識がはっきりとしてきたようで、いそいそとマフラーを外しはじめていた。
せめてもの繋がりを解かれたくなくて、彼女が解くよりも先に「じゃあ俺はこれで」と入り口に止まっている車へと小走りで向かう。背中に「羽風先輩、マフラー!」という声と、ヒールの音が響く。だって君が持ってたら、それを口実にもう一回会えるでしょ。
追いつかれたくなくて、慌てて車に駆け寄れば、ドアより先に助手席の窓が開く。不機嫌そうな晃牙くんが「なにやってんだよ」と息を切らす俺に向かって不躾な言葉を吐いた。
すると、彼女の足音が止まった。振り返れば俺ではなく晃牙くんを見て、彼女は露骨に顔を歪めている。わからないけど、今がチャンスかも。そう思って後部座席のドアを開いて滑り込めば「あっ!」と彼女の声が響く。その声に晃牙くんは目を細めて、暗闇に立つ彼女を見つめて「あいつ、なんで……」とぼそりと呟いた。
「テメエ、またんな汚え格好して……」
「べ、べつにしたくてしてるわけじゃないもん!」
「何徹したんだよ!」
「一晩だけです!」
そう言い彼女はかつかつと音を上げて、今度は助手席に座る晃牙くんの方へと歩み寄る。窓を開いて車から少し身を乗り出せば彼女は不機嫌そうに晃牙くんを見上げて「でも羽風先輩はキレイって言ってくれたもん」と口惜しそうに言葉を落とした。
「んなもんこいつの常套句だろうが、つうか化粧もしてねえし」
「いつもしてます! 今日はちょっと途中で落として……」
「……ねえ、随分と親密だけど……」
思わず挟んでしまった言葉に、彼女の目線がこちらに飛んでくる。彼女は恥ずかしそうに目線を逸らしながら「よく、飲むので」とぼそりと呟く。え、なにそれ! 座席の枕を掴んで晃牙くんのシートを揺さぶれば「テメエだって同期でよく飲んでるだろうが!」と鬱陶しそうな声が車内に響く。隣に座っていたアドニスくんも神妙に頷いて「近状報告も兼ねて、月一で飲んでいる」と暴露し、奥でうつらうつら船をこいでいた朔間さんも「そういえば凛月もそんなことを言っていたような……」と首を傾げた。なにそれ、なにそれなにそれ! 俺知らないんだけど!
ああでもよく考えれば合点がいく。あの日の飲み会で女優の名前を出したときの晃牙くんのあからさまな馬鹿にしたような笑い。そうか晃牙くんは今のこの子を知っていたから……。
腹立たしくてシートを一度蹴れば「テメエ蹴んじゃねえよ!」と怒号が飛ぶ。聞こえないふりをして窓から顔を出して彼女に「俺とも、また、会ってね」と笑う。彼女が「また」と唇を揺らす。
「そうですね、また」
時刻が七時半を指した。「もうだしますね」とマネージャーの声と共に車が唸りを上げる。揺れる車体に彼女は二歩離れて、そして「お疲れ様でした」と深々と頭を下げた。
「告白はしなくていいのか?」
アドニスくんの純朴な疑問が聞こえた。俺は笑って「今はいいよ」と答える。
「きみもお疲れ様。今日はゆっくり休むんだよ」
車がゆっくりと発車する。彼女は再度深々と頭を下げた。車が敷地を出て、壁で入り口が見えなくなるまで彼女はずっと、頭を下げていた。