「キレイだ。」_02
「羽風さんお疲れ様です」「あ、お疲れ様ですー」
「今日で終わりですか?」
「いえ、まだまだ。来週もまた顔出します」
小さな収録スタジオの良いところは、通えば通うほど気安さが出てくるところかもしれない。大きなスタジオだと多くの人と出会えるが、皆一様に気忙しそうで、挨拶を交わすのがやっとだ。でもここは違う。
都内のビルの一角にあるこの収録スタジオは、スタジオ自体が一部屋しかなく、箱も小さい。だからすれ違うのも大抵同じプロジェクトに属する人か、このスタジオの運営を担っている人に限られる。目の前で微笑むこの女性も、スタジオの関係者だ。
入り口前に心狭しと積み上げられた箱馬。段ボール箱に乱雑に詰め込まれた小物たち。スタジオの壁には剥がし忘れたのであろうマスキングテープの欠片が寂しそうに壁に張り付いている。
その壁にもたれかかってまだ続く現場を眺めていると、女性は「では来週も、会えるのを楽しみにしています」とキレイに笑った。薄付きのファンデーション。主張しないさりげないチーク。ピンク色の口紅が、女性の口元を艶やかに彩る。
大人なその化粧を、記憶の中の幼い彼女と重ね合わせる自分に気がついて、思わず苦笑を浮かべてしまった。女性は不思議そうに首を傾げたので「思い出し笑いです」と正直に白状すれば、女性は笑った。
飲み会の日に口にしてからと言うもの、彼女に会いたい気持ちは日増しに強くなるように思える。たまに催される高校時代の懐かしい面々との飲み会で彼女の名前を口にすれば「現場で会った」「打ち合わせに同席していた」との話は得られるものの――というか皆ずるくない? なんで一緒に仕事してるの?――彼女が今どこに務めていて、どこに住んでいるか、なんて情報は全く得られない。風のようにふらっと現れて、気がついたら居なくなっているらしい。当然彼女の名刺など持っている人は誰一人としていなくて、うらやましさだけが心に降り積もる。
新しい仕事をする度に、会えるんじゃないかと探してしまう。「そんなに会いたくなるなら捕まえておけばよかったでしょお」なんて、苛立たしげに机を指で叩くせなっちの言葉を思い出す。まあ確かにそうだけど、あの頃はあれが正義と思っていたわけで、その気持ちを否定したくはない。例え今、その選択で苦しめられたとしても、あの言葉は、あの気持ちは全くの嘘ではなかったのだから。
女性に別れを告げて、分厚い扉を押し開ける。出迎えてくれる冷え冷えとした風に、そういえば今日は寒かったんだっけ、とマフラーを巻き付ける。スタジオはライトや機材から発せられる熱で大抵暖かい。寒暖差に耐えきれなかった身体が小刻みに震えるので、これは外に出る前に暖を取った方がいいかも、と入り口を背に小さな休憩所へと向かう。
休憩所は丁度人が居ないタイミングだったらしく、寒々しい空気だけが、俺を出迎えてくれた。『最後の人は電源を落とすこと』と注意書きが書かれた備え付けの電気ストーブの電源を入れカップ式の自販機の前へと立つ。ホットコーヒーを選んで注がれるのを待っていると、低い唸り声を上げてストーブが動き出した。自販機のアラームが聞こえ、並々に注がれたコーヒーを取り出しストーブの前に立って、一度身震い。徐々に寒さが解かれていく空気に、ようやく一つ、息を吐いた。
ポケットから携帯を取り出してメッセージを確認していると、朔間さんから「おわったぞい」と連絡が届いていた。そう言えば今日は朔間さんと晃牙くんは別場所で収録なんだっけ。連投されていたポケットに手を突っ込んで車を待っている晃牙くんの後ろ姿の写真を見て小さく笑みを零し「了解、俺の方も終わったよ」とメッセージを送る。今日はこれから彼らと、そしてオフのアドニスくんと合流して、次のライブのミーティングを兼ねてのご飯を食べに行くことになっていた。間髪入れずに晃牙くんからの「さっさと店まで来い、あと写真は消せ」のメッセージと店の情報が入り、コーヒーを啜りながらお店の情報を開く。ここから若干遠いことを知り、思わず眉を寄せてしまう。
タクシーを拾うのも面倒だし、かといって電車に乗るのはないでしょ。
電気ストーブから少し離れた休憩所の椅子に座って、画面をタップしキーボードを起動させる。ストーブのおかげで暖まった空気に気がついて、コーヒーを窓枠においてマフラーを外した。そして「どうせマネージャーの車でしょ? 迎えに来て」とスタジオの場所をメッセージに投げる。数分して晃牙くんからの「アドニスを拾った後で向かってやる」とのメッセージ。数分の間におそらくあちらで文句を垂れていたのだろうと分かる程愛想のない素直なメッセージにまた笑みが零れる。
どうやら十五分ほどかかるらしい。喫茶店で時間を潰してもいいけど、残念ながらこの小さな収録スタジオには併設されたそういう施設は存在しない。外に出るのも寒くて億劫。大人しく時間をここで潰すしかないか。
半分ほど減ったコーヒーを大切に大切に飲んでいると、小さなざわめきが聞こえた。随分と疲れた複数の声が上から下りてきている。階段を叩くヒールの音。そう言えば上は会議室なんだっけ、とぼんやりと思い出しながら廊下を見ていた。
ではまた、と別れの挨拶が聞こえる。一つの足音は遠く、ヒールの音はだんだんと近付いてきている。スマホから顔を上げておそらく横切るであろうヒールの影を眺めていると、それは、急に視界に飛び込んできた。
あの頃とは変わらない身長。少し長くなった髪の毛を後ろで簡素に纏めた彼女はこちらに見向きもせず休憩所を横切ろうとしていた。根拠のない確証が胸中を渦巻き、思わず焦がれていたその名前を口にする。あまり大きな声ではなかったのに、彼女は足を止めて、そして休憩所の俺を見た。驚き見開かれたその顔を見て、輪郭のなかった期待が確信に変わる。上ずった声でもう一度彼女の名前を呼べば、彼女は恐る恐る「はかぜ、せんぱい?」と俺の名をなぞった。
「本物?! え、なに、どうしたの?! 仕事?! 元気?!」
「わ、私急いでるので……」
「ちょっと待って、少しだけ、五分、いや十五分! ……だめかな?」
「……そういうのって、減らして提案するものでは……?」
立ち上がり彼女に寄ろうとすると、彼女は片手を突き出して俺を拒絶する。ピタリと歩みを止めれば、彼女は突き出した手と反対の袖を鼻元へと寄せて「におうかも……」と小さく呟いた。その動作が可愛くて思わずもう一歩踏み出せば、今度は彼女の厳しい「待って!」の言葉が俺を留める。
「……その、かみも、ぼさぼさだし。けしょうも、してないので……」
確かに彼女の顔を見れば、アイシャドウや口紅、チークも見当たらない。素のままの彼女は恥ずかしそうに俺を見て「また別日に」と呟き歩き出そうとしたので、慌てて駆け寄りその腕を掴む。見れば服も随分とよれている。疲れて重く上下する彼女の瞼を見ながら「お疲れ?」と聞くと「ええ、まあ」と歯切れの悪い言葉が返ってきた。
「気にすることないって。化粧なんてしない人はしないでしょ?」
「いや、普段はするんですよ?! でも今日はその、ちょっと会議が盛り上がっちゃって」
「盛り上がって……? いつからやってたの?」
彼女は無言で壁に掛けられている時計を見上げて「きのうの、おひる」とばつの悪そうに呟く。昨日のお昼って事は、一日中やってたってこと? 彼女を見下ろせば、露骨に目を逸らされて「いや、そんな、頻繁にそういうことをしているわけじゃないんです、たまたま」と言い訳を並べられた。
「だから途中で化粧を落として……えっと、その……」
「昨日ちゃんと寝た?」
「すこしだけ……隙間時間に会議室で……」
「……女性だけだったんだよね?」
「……その……だんせいのひりつのほうが……」
後ろめたいことだと分かっているからか、言葉尻がどんどんと弱くなる。たやすく想像できる無防備な寝顔に、相変わらず変わってないという気持ちと、もう少し女としての危機感を持って欲しい気持ちが入り交じってため息となり口から漏れた。
彼女はそのため息を聞いて「でも!」と顔を上げて俺を見上げた。彼女の瞳に映る自分を見たのは随分と久しぶりに思える。制服姿ではないし、あの頃のように幼くもない。過日を感じるその姿に目を落とすと、彼女は爛爛と目を輝かしながら俺を見返した。
「すごく良い企画ができたんですよ! ……言えないですけど」
その笑顔に、とくり、と小さく胸が動く。そうだこの笑顔が好きだったんだ。着飾ることもなくて、ただ自分の信じることだけに邁進するこの瞳が、笑顔が。
ゆっくりと、でも確実に早鐘を打ち始める心臓の音を感じながら、小さく「キレイだ」と呟いた。彼女はその言葉に怪訝そうに顔を歪めて「……嫌みですか?」と俺を睨み見上げる。慌てて首を横に振って「違うよ」と良い彼女を引っ張り休憩室の椅子に強引に座らせる。握っていた腕を放して隣に座れば、暖かな空気に包まれて安心したのか、彼女は重く瞼を上下させながら「ちゃんとしたときに再会したかった」と覚束ない声を漏らした。
「……じゃあ告白するのは、君のいう『ちゃんとした格好』のときにしようかな」
俺が小さく笑えば、こつん、と肩に何かが当たった。耳を澄ませばすうすうと安らかな寝息。身体をできるだけ動かさずにそちらを見れば、彼女は体重をこちらに預けてすやすやと夢の中へと旅立っていった。
「……ほんともう、相変わらずだなあ」