有明行燈_09
「仲直りしたんだって?」そう言って、ひょこりと顔を出したのは、凛月くんだった。彼がA組に顔を出すことは珍しく――ユニットでも部活でも関係のある人がいないわけだし、真緒くんはB組だし――目を丸くして「どうしたの?」と尋ねれば「ちょっとねえ」と彼は自由気ままに私の前の椅子に座った。そしてあくびを一つ。溶け出すように私の机に寝そべって「ううん、机は冷たい」と文句を零した。
流れるように行われたその所作に、文句を言う気も失せて、ただただ彼を見下ろす。凛月くんはまるでこの椅子と机が自分の物であるかのように腕を組んだり、垂らしたり、自由に動かして眠る体制を作った。
全く、兄弟揃って自由人か。凛月くんに巻き込まれていた書類を救出して、ついでに広がっていた書類も全てまとめて机の中に入れれば、凛月くんは場所を空けてくれたと解釈したらしく、ごろりと頭を転がして、堂々と私の机を占拠した。
まだ放課後になりたてて、教室には疎らだが、クラスメイトが幾人残っている。勿論彼の奇行が目立たないはずもなく、皆遠巻きに視線を投げかけていた。しかし凛月くんはそんな視線など歯牙にもかけず、寝心地の良いところを探しごろごろと頭を動かしながら不満そうに唸り声を上げている。
「ねえ寝心地が悪いんだけど」
そりゃあ、寝具じゃないからね。まともな反論がムクムクと湧き出たけれど、黙って鞄の中からタオルを取りだし彼の頭の真横に置く。感触で気がついたのか、彼は垂らしていた腕を持ち上げ、机の上に置いて、そして手探りでタオルの端を探す。指先にタオルが触れ、彼はそれを掴み、頭の下に引いた。
なんか、こんな貯金箱みたことあるかも。
既視感のあるその光景にちいさく笑えば、不機嫌そうに凛月くんが顔を上げた。そして辺りを見回してまた俯かせる。
「寝るの?」
「ちょっとだけね」
「用事があるの?」
凛月くんは答えない。一体何しに来たのだろうか。まあ今日は予定もないしいいか、と、机に残った僅かなスペースに片付けた書類を広げて書き込んでいく。
「うるさい」
理不尽な声に私は手を止めて、そしてやれやれとプリントを片付けてスマホを開いた。まあ急ぎの仕事じゃないし、今日は少し、お休みしよう。
教室はしばらく暖かかったが、一人、二人と帰り、とうとう凛月くんと二人きりになる頃には、もう冬の空気に満たされていた。外ほどではないが、随分と寒い。身震いをして前を見れば、突っ伏している凛月くんの姿が目に入る。熟睡しているのか、それとも俯いているだけなのかはわからない。でも、風邪を引いてしまう、と思い椅子を引けば、その音で凛月くんがすぐさま顔を上げた。
「どこいくの?」
「いや、寒そうだしコートかけよっかなって」
「必要ない」
そう言うと凛月くんは辺りを見回す。誰も居なくなった事に気がついたのか彼は大きく欠伸を漏らした。そして尊大に椅子に体重を預けて、睨むように私を見上げる。
不機嫌そうなその顔色に私は機嫌をこれ以上損ねないよう恐る恐る「どうしたの?」と声をかけた。凛月くんは敵意を緩めることなく射抜くようにこちらを見上げるばかり。
なにかユニットで問題を起こしちゃったのだろうか。それとも凛月くんに失礼を働いてしまった?
思考は駆け巡るが、どうにも思い当たる節がない。おずおずと椅子に腰を下ろせば、凛月くんはつまらなそうにため息を吐いて「おびえすぎ、別に取って食おうなんて思ってないんだから」と身を起こした。
「えっと、一体どうしたの?」
「聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
「あのさ」
「なに?」
「もう兄者のこと、いらなくなったの?」
私は言葉を失った。まさか凛月くんからこんなことを言われるとは思わなくて、しかも事態が落ち着いて久しいタイミングだ。当初はいろいろ気にしていた晃牙くんも、もうこの件に関して口にしなくなって随分経つ。なんで急に? どうして?
冷水を浴びせられたような感覚に、声を震わせながら「ちがう」とだけなんとか声にする。しかし凛月くんは手を緩めることなく「じゃあなんで、付き合ってるって言ってあげないの」と追撃を放つ。その通りの言葉に視線を膝に落とせば、こっちを見ろと言わんばかりに凛月くんが机を指で叩く。抗えぬその圧に顔を上げれば、凛月くんは真っ直ぐに私の瞳を見つめた。朔間先輩と同じ瞳がぎらりと光る。
卑怯なことは重々理解をしていた。そして私の都合のいいようにこの件が動いていることも、なんとなく知っていた。振られることもなく、自然消滅。残ったのは甘い思い出だけ。先輩は真偽不明な疑問を抱えて消化不良。でもきっと、優しいからそれを抱えて卒業してくれることだろう。
きりり、と胃が痛む。背けていた現実が凛月くんによって暴かれて、塗り固められた嘘がひび割れ、土埃をあげて崩れていく。残ったのは丸腰の自分で、盾もないまま、凛月くんの言葉に返事を返す。
「いえ、ない、から」
「なんで? 言ったら振られるから?」
隠していた気持ちが、彼によってどんどんと白日に晒される。逃げ出すことも出来たかもしれない。だけど、ここで逃げたら本物の弱虫だ。
向き合おうと、小さく息を吐く。そして強く凛月くんを見つめ返して、小さく息を吸う。膝の上で拳を作り「そうです」と返せば、凛月くんは呆れたように大きなため息を吐いた。
「振られるって決まったわけじゃないじゃん」
「でも、先輩にとって、私は、知らない」
「人ではないでしょ、だって随分と仲良しじゃん」
凛月くんの言葉に驚き目を瞬かせれば、彼は「でしょ?」と笑う。確かにそうだけど、恋愛感情に発展するようなほど仲が良いわけでもないのは確かだ。
先ほどの決意がしゅるしゅるとしぼみ俯けば、凛月くんは深く深くため息を吐いた。そして指で私のおでこを思い切り弾く。反射的に顔を上げれば、凛月くんはやはり眉間に皺を寄せて「あのさあ」と口火を切った。
「今はいいかもしれない。でも、きっとずっと後になっても心に残るよ。だったらサクッと振られちゃって次に進んだ方がいいんじゃない?」
「でも、そんな……振られても、立ち直れる、自信がないし」
「何言ってんの、今だったらコーギーも、なんなら俺も慰めてあげられるよ?」
「……なにそれ」
唐突な優しい言葉に目を丸くすれば、凛月くんは眉間の皺を更に深く刻んで「俺、変なこと言ってないよね?」と凄んだ。慌てて首を横に振るい膝の上で手を組みながら、小さく「怒ってるかと、思った」と私は呟く。間髪入れず「怒ってるんだけど」と言われてしまい、身を縮こませながら「ごめんなさい」と謝った。
「……別にあんたと兄者が付き合っても付き合わなくてもどうだっていい」
「うん」
「でも、中途半端に終わるのは、だめだよ」
諭すような言葉を零し、凛月くんは実直な視線を私に向けた。私は真っ直ぐに凛月くんを見つめ返す。見た事ある視線だと思った。一緒に帰った日のアドニスくんの視線、そして屋上に隠れていた私を見つけ出した晃牙くんとそっくりな視線だということに気がついた。
思い返してみれば、事実から逃げたときも、先輩から逃げ出したときも、そして都合の良い現実に逃げようとしたときも、こうして彼らは道を灯し、正してくれた。暗闇に放り出された私の周りを照らして、暖めて、そして前に進ませてくれた。
その優しさに、暖かさにようやく気がついて頬を緩ませれば、凛月くんは黙って私にタオルを手渡した。
「コーギーから聞いてたけど、ほんと、泣き虫」
「凛月くん……ありがと」
「べつに、終わったらお礼でもなんでも聞いてあげるから。ちゃんと決着つけてきてね」
「うん」
ぼろぼろと泣き出す私に凛月くんは頬杖をついてじっとこちらを見つめた。私は止まらない涙をタオルに落としながら、そうか、彼らはずっと外から見守ってくれていたのか、と鼻を鳴らした。
私も、そしておそらく朔間先輩も、自分のことで精一杯で周りをあまり見ることが出来なかった。自分の欲しい未来を探して、あがいている間も、彼らは私たちを見守り、そして導いてくれていた。そして、今も。
「そうだね、ちゃんと、話さないと」
「そうそう、さっさと話してサクッと振られてこれば?」
「振られるって決まったわけじゃないけど……まあ、振られなくても、付き合うこともおそらく、ない、とは、思う、けど」
「なんで?」
「その、プロデューサーと、アイドルだし」
私の一言に凛月くんの和らいでいた表情が、また険しくなる。苛々とした口調で「それさあ」と言い乱暴に頬杖をついた。衝撃で、強い音がなる。びくりと身体を揺らせば、どうやら凛月くんも驚いたらしく、ふいと視線をそらし、そしてまた私の顔へと視線を戻した。
「散々コーギーたちから否定されたでしょ? いい加減気にしてるの自分だけだって気がつけば?」
その言葉に反論しようと口を開く前に、教室のドアがけたたましく開いた。驚いてそちらを見れば、いつからいたのだろうか、朔間先輩が「喧嘩は、いかんぞ!」と狼狽した様子でこちらへと駆け寄ってくる。凛月くんは自分の肘に視線を落とし「うっざ」と小さく言葉を落とす。しかし聞こえていないらしい朔間先輩は凛月くんを非難するように見下ろした。負けじと凛月くんが先輩を睨み上げる。
「別に俺たちの問題だから兄者には関係ないでしょ」
「でも、嬢ちゃんだって泣いておるし……」
「泣いてて兄者になんの関係があるの? 部外者じゃん」
「そうは言っても、嬢ちゃんも大切な後輩じゃし……」
「うっさいなあ……痴話喧嘩だから、出てって。兄者だって男女の仲に口出しする権利、ないでしょ?」
男女の、仲? それはなかなか苦しいんじゃないだろうか、朔間先輩は、付き合っていたことを知っているわけだし。
引き下がろうとしない先輩への苦肉の言い訳なのか、凛月くんの言い訳のチョイスに、私は目を丸くして朔間先輩を見上げる。朔間先輩は先ほどまで緩めていた目を僅かに、細めた。瞬間に、空気が凍るのを感じる。
「それは、違うじゃろう?」
随分と、冷めた声だった。その温度差に、私も、相対していた凛月くんも怯む。先輩はすぐさま表情を緩ませて「そんな意地悪いわんでおくれ、な?」と懇願するように凛月くんに笑いかけた。唖然とした凛月くんは暫く言葉を失って――そして「なんでしってるの」と呟くように、言葉を吐いた。
何で知ってるのって、凛月くんが付き合ってることを朔間先輩に伝えたんじゃないの? 頭の中で噛み合わない現実が絡まり出す。凛月くんはもしかして、朔間先輩が知っていることを、知らない? じゃあ誰が先輩に情報を漏らしたんだ? 晃牙くん? いやでも、そんな素振りは。
「もしかして、思い出したの?」
「そういう訳じゃないんじゃが……嬢ちゃん、ちょっといいか?」
朔間先輩はそう言うと、蚊帳の外だった私の腕を引っ張り出す。突然の事に踏ん張りがきかなくて、引かれるがまま私は先輩の胸に飛び込んだ。「あっ」と凛月くんの声がする。先輩はなにかをひっつかんで、そしてそのまま教室の扉に向かってかけだした。引かれるがまま私も教室から飛び出す。廊下は随分と寒くて走りながら身を震わせると先輩はなにかを私に投げつけた。これは、椅子にかけていたストールだ。さっき、これをひっつかんだのか。
「ちょっとまだ話は」
大声のはずの凛月くんの声が遠くなる。先輩は振り返ることなく足を動かし続ける。何も言わない先輩の背中を見つめながら、どきどきと、心臓が早鳴るのを感じていた。
涙はもう、止まっていた。