有明行燈_10

「はー、随分と走った」
「し、死ぬかと思った」
「嬢ちゃんは随分とやわじゃのう?」
「先輩は案外、動けるんですね?」
「そりゃあ、動けなかったらライブは出来んじゃろう」
「た、たしかに」

 息を乱しまくる私に比べ、先輩は何一つ息を乱していなかった。走りたどり着いたのは、校庭の、見事な紅葉の下だった。暖かい日は埋まる校庭のベンチも、冬になると閑古鳥が鳴くらしく、随分と木の葉が降り積もっていた。先輩はそれをはたき落として、私に席を勧める。私は素直に隣に座り、息を吐いた。白く濁る吐息が、目の前の空気を曇らせる。
 整える為に長く息を吐けば「嬢ちゃん、もっとこっちへ」と先輩が手招きをした。言われるがまま彼に寄れば、先輩は私のストールを掴み、一方は私の肩へ、一方は自分の肩へとかける。そこまで長くないそれは二人ではいるには随分と窮屈だ。寒いのなら、と肩に掛かったそれをはずそうとすれば「寄れば足りるぞ?」と先輩は腰をひっつかみ無理矢理私の身を寄せる。

「……走って暑いので」
「汗が引くと寒くなるじゃろ。我輩は寒いから側に居ておくれ」

 そう言って、甘えるように先輩は私の肩に頭を乗せた。その親密な態度に私は「先輩、もしかして記憶が」と呟けば、先輩は「残念ながら戻っておらんよ」と私の右手をそっと握る。

「嬢ちゃんのことは相変わらず覚えておらん。知っていることは、頑張り屋で、意固地で、泣き虫で……そうじゃな、あとは笑顔が可愛い」
「なにそれ……」
「あとはそうじゃな、我輩の可愛い恋人、というくらいか」

 先輩の言葉にぴくりと身体を揺らせば、朔間先輩はクツクツと笑いながら「そうじゃろ?」と手を強く握った。どきどきと、うるさいほどに心臓が鳴る。震える声で「誰から聞いたんですか?」と尋ねれば、先輩はひどく呆れたように「おばかじゃのう」と身を起こした。

「嬢ちゃんは知らないかもしれんが、世の中には『受信履歴』というものがあってな」
「……あっ」
「いやあ随分と可愛いメッセージの数々じゃな、我輩少し照れてしまった」
「ちょっと、やだ、やめっ……」
「写真も沢山あったし」
「やめてください!」

 そうだ、冷静に考えればそうだ。記憶が残らなくても記録は残る。ちょっと浮かれたこっぱずかしいメールだって、二人で内緒で撮った写真だって、勿論彼の端末には残っているわけで。なんで思いつかなかったのだろう。なんで失念していたのだろう。
 思い出しうる恥ずかしいそれらに顔を真っ赤にして言葉を遮れば、先輩は私と向かい合うように座り、そしてそのまま抱き寄せた。柔らかい、カーディガンの起毛が頬を包む。とくとくと、先輩の心臓の音が聞こえた。随分と懐かしい暖かさに、思わずブレザーの裾を掴めば「別れたかったのか?」と不安げな言葉が聞こえた。顔を上げて首を横に振れば、先輩は安堵したように「そうか」とまた、私を胸に寄せる。

「我輩は嬢ちゃんの事、好きじゃよ。好きだった? 好きになった?」

 先輩は言葉を探すようにぽろぽろと零す。しっかりと顔が見えるまで彼から身を離せば、目線がしっかりと合ってしまう。朔間先輩は嬉しそうに顔を綻ばせて私の頬を撫でた。

「うん。好き。愛しい」

 もう、耐えきれなかった。熱く歪む視界に先輩はまた優しく胸に誘い、あやすように何度も背中を叩いてくれる。

「昔の嬢ちゃんのことは覚えておらんから、大して思い出もないと言われてしまったらそれだけじゃが……楽しそうなメッセージを見ると嬉しくなったし、実際に嬢ちゃんが毛を逆立てて威嚇してくるのも、可愛かったしのう」
「い、いわないでください……」
「言わせておくれ、だって、ようやく伝えられたんじゃから」

 ぼそりと「随分と凛月やわんこにせっつかされたけどな」と笑う。ああ、そうか。やっぱり。また溢れる涙に私は先輩の腰に抱きついた。先輩は嬉しそうに「ようやく甘えてくれた」と背中を叩く手を止めて強く抱きしめる。ああ、ようやく帰ってこれた。私の大好きな場所。大好きな人。

「零、さん」

 懐かしい、随分と口にしてなかった名前を呟く。零さんは嬉しそうに「直に聞くとやはり照れるのう」と言葉を弾ませる。二人きりのときに零さんとよく呼んでいたが、そうか、メッセージでも零さん呼びだったっけ、とぼんやりと思い出す。

「嬢ちゃん」
「なんですか?」
「一つお願いがあるんじゃが、いいか?」
「いいですよ」
「もう一度、告白をさせておくれ」

 顔を上げれば、随分とうきうきした表情で、零さんが見下ろしていた。私が黙って頷けば、彼は顔が見える程度の距離をとり、そして照れくさそうに微笑んだ。
 彼が名前をなぞる。私が頷く。零さんは手を取り、そして手のひらにキスを落として、口を開いた。

「どうか我輩と、付き合っておくれ」
「……はい!」

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