有明行燈_07
先輩は性懲りもなく今日も教室へとやってきた。机に落ちるその影に、先輩、と彼を見上げれば、朔間先輩は嬉しそうに腰を下ろす。電卓を叩くのをやめて先輩と向き合えば、彼は計算途中の電卓を指でつつき「忘れてしまうぞ」と笑う。確かに彼の言うとおりだ。最後まで数字を足し合わせ、合計を紙に記載する。シャーペンを置いて彼を見れば「こういうこともプロデューサーの仕事なんじゃな」と楽しそうに指先で紙を撫でた。「昔はユニット内で請け負っていたが……そうか、知れば知るほどいろんな事をやっておるのじゃな」
「おそらくいろんな事をさせて、来年への取捨選択しているんじゃないですか?」
「確かに」
朔間先輩がじろじろと紙の内容を見ようとするので慌ててそれを机の中に隠した。さほど機密ではないが、あまり知られていい内容でもあるまい。
残念そうに肩を竦め、そしてシャーペンを指先で転がし始める先輩を見て、もうこの人はしっているんだよな、とぼんやりと思った。しかし、それを聞く勇気はまだ、ない。でも、知ろうとする勇気は……私をしらない彼を知ろうとするその勇気は、昨日アドニスくんや晃牙くんから貰った。
先輩をじっと見つめれば「そんなに見つめられて……照れるのう」と大げさに身じろぎする。なんとなく既視感のあるその動きに、そういえばまだ親しくない頃はこんな感じだったと、思い出した。随分と季節が変わってしまったけれど、懐かしいその態度にほんの少し警戒が解ける。
もしかしたら。私が勝手に値踏みだとか、警戒していただけで、彼は別段いつも通りに振る舞っていたのかもしれない。ずっと色眼鏡で見ていたから、もしかしたら今日は違った見え方をするかもしれない。
そう思って見続けていたら、先輩は根負けしたように「だめじゃよ」と私の目の前を手で覆う。冷たい、懐かしい指先にびくりと身体が反応した。鼻先に、彼の、暫くご無沙汰だった妖しい香りが揺らめく。
「本当に、照れる」
「アイドルなのにですか?」
「だって嬢ちゃんは我輩のファンじゃないじゃろう?」
手をどかされる。紅の瞳がちらつく。探るようなその視線に「ファンですよ」とふてぶてしく答えれば、朔間先輩は吹き出して「本当かのう」と頬杖をついた。微笑むその視線に悪意はない。先輩の無邪気な笑顔を見ていたら、今までの私の失礼な態度が頭の中を巡り、良心がちくりと痛む。
いきなり態度なんて、軟化できるわけ、ない。
ままならない感情にため息を吐けば、先輩は「お疲れか?」と私の顔をのぞき込む。顔を顰めて「お疲れです」と可愛げのない態度をとれば、朔間先輩は机の上に置いていた私の手をそっと掴んだ。両手で、まるで大切な物を包むように彼は私の指先を包み込んで「寝ても良いよ」と言葉を落とした。
「一時間経ったら起こしてやろうな」
「……先輩」
「なんじゃ?」
彼が、ここまで好意をやたらめったら振りまく人ではないということは知っている。身内に対してはすごく甘いけれど、外部に対しては存外にドライだ。だから、なぜ私がはじめから「身内」の立ち位置に居るのか理解はまだ出来ていないし、こんなに優しくされる理由だって、わからない。
「用事、あったんじゃないですか?」
「特にはないよ」
「用事もないのに毎日……もしかして時間、持て余してます?」
「そうでもないよ。こう見えても我輩、済ますべき事をちゃんと済ましてここへ来ているんじゃから」
「……なんで、そこまで」
「そうじゃのう」
先輩は私の手の甲を指先で撫でる。目を細め、包まれている私の手のひらを見つめて、そしてゆっくりと顔を上げた。その顔は、想像していたよりも随分と優しい。包まれている指先に力を入れれば、緊張をほぐすように、先輩は両の手でまた、優しく包む。
「嬢ちゃんが初日から、近付くなと言わんばかりに警戒してたからかのう」
「……警戒」
「気になって次の日訪ねてみれば、笑顔は剥がれて露骨に嫌悪感を表しておったし。聞けば嫌な仕事でも笑顔で受け答え出来る子なんじゃろう? なぜここまで嫌悪感を示すのか、興味が湧いての」
「……」
「今日の態度は随分と軟化したが……なんじゃ、わんこやアドニスくんから何か言われたのかえ?」
「別に……そういう、わけでは」
昨日のことを口外すれば、芋づる式に彼が「私を彼女だと知っている」事がばれてしまう。はぐらかせば先輩は「そうか」とさほど興味がなさそうに言葉を返す。
ということはこれは、『彼女かどうか』の逢瀬というよりも、『初日に敵意を表してきた人』の素性調査に近いものなのだろうか。
想定していなかったその言葉に、目を丸くすれば、先輩は微笑んで「嬢ちゃん、我輩のこと、嫌いか?」と首を傾げた。そんなの、好きに決まってる。眉間に皺を寄せれば、先輩は小さく息を吐いて「意地悪な質問じゃったな」と言い、小さく謝罪の言葉を述べる。
「……嫌いじゃないです、先輩のこと」
「ほう?」
「その、すいませんでした。ずっと失礼な態度を、とって……」
つっかえつっかえに吐き出した謝罪に先輩は目を瞬かせ、そして「ああそうじゃ、我輩すっごく傷ついたんじゃよ」と大げさに胸を押さえる。芝居がかったその行動に私が呆けていると、先輩はぐずぐずと泣き始める。本当に涙がぽろぽろとこぼれるが、これでも半年以上共に居たのだ。よく知っている。これは嘘泣きだ。
「嬢ちゃんが辛辣な態度をとるから、我輩、夜も眠れなくて」
「もともと夜、起きてるじゃないですか」
「……じゃあ、食事も喉を通らなくて」
「この前雑誌の取材でお肉、食べてましたよね」
指摘を返して困っている彼に思わず小さく笑いを零せば、先輩は顔を上げた。流れていた涙はぴたりと止まり、晴れ晴れしい笑みを浮かべながら「ようやく笑った」と彼は私の手を、きゅっと握る。
「うん、嬢ちゃんは笑顔の方がいいのう。嘘くさくない、笑顔の方が」
「……本当に、すいませんでした」
「よいよい。元はといえば我輩のせいじゃし……嬢ちゃんさえよければ、もう一度チャンスをくれんか?」
「チャンス?」
「嬢ちゃんの事を、教えておくれ」
先輩の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。もうおふざけは微塵も感じないその態度に、私はゆっくりと首を縦に振った。先輩は顔を綻ばせて「ありがとう」と嬉しそうに言葉を落とす。お礼を言いたいのは、こちらのほうだ。私は逃げてばかりなのに、先輩はずっと追ってきてくれていたのだから。
「先輩」
「なんじゃ」
「……ありがとうございます」
私のその言葉に、朔間先輩は微笑み、そして頭を一度撫でてくれた。懐かしいその行動に顔を綻ばせれば、先輩は嬉しそうに目を細めて笑った。
「うん。やはり笑顔が一番いいのう」