有明行燈_06
日が落ちて外での作業がつらくなった頃合いで、私はゆっくりと立ち上がった。晃牙くんはまだ身体を投げ出していて、立ち上がった私を見上げて「戻るのか」と呟いた。私は頷いてその場にしゃがみ込み「晃牙くんは?」と尋ねる。夜風に乗って晃牙くんの銀髪が穏やかにそよぐ。暫く私の顔を見た後で、彼はふっと視線を逸らして「まだここにいとく」とだけ呟いた。もしかしたら一人になりたかったのかもしれない、彼は。それでも、側に居てくれたのかもしれない。小さく笑って「ありがとう」と言えば、晃牙くんは視線をこちらへと戻すことなく「ああ」とだけ呟いた。
もう夜の帳が下りた屋上は暗い。階下の明かりが、ぼんやりと淵を照らす。月明かりはささやかに私たちを照らし、内緒の逢瀬を暖かく隠してくれているようだ。
「じゃあ、風邪引かないように」
「ああ、お前もな」
小さく別れの挨拶を交わして、私は屋上のドアに手をかけた。
流石に校舎内は暖かい。ストールを外して薄暗い廊下を歩く。結構な時間が経っていたようで、教師の明かりは疎らだ。
鍵、開いてたら良いな。開いてなきゃ職員室に取りに行かなきゃいけないし。
とんとんとん、と軽快なリズムで階段を下りて二年の教室がある階へと向かう。階段を下りきり角を曲がれば……よかった、二年A組の窓から、オレンジの明かりが漏れて廊下に流れているのが見えた。
そのまま迷いなくドアに手をかけて横に引けば、なぜかアドニスくんが机に突っ伏して眠っていた。おや、珍しい。物音を立てないように席に寄り、そして鞄に物を詰める。ふと目の前の席を見れば、なぜか椅子が机から飛び出し、斜め後ろ――私の席の方に向いていた。まるで誰かが私の席に向かって座っていたみたいだ。
もしかして。いやでも、朔間先輩なら居ない時点で諦めそうだけど。でももしかして、暫く待ってくれていた? そんなまさか。理由もないのに?
都合の良い解釈が頭の中を流れ、それを振り切るように私は目の前の椅子を机に差し込んだ。そして自分の机に戻り、帰り支度を再開する。
丁度教科書を鞄に詰めていた頃合いで、ううん、と寝ぼけた声がきこえた。振り返ればアドニスくんがまだ夢心地で目をしぱしぱ瞬かせ、そして大きな欠伸を漏らし、私の名前を呼んだ。
「おはよ、お疲れさま?」
「ああ、いや……その、お前を待っていた」
「私を? 何か問題でもあった? 連絡してくれたら行ったのに」
「いや、呼び出す程のことではない……」
アドニスくんは眠気を追い出すようにふるふると頭を振るった。そして立ち上がり、椅子にかけていたコートに手をかける。まだ眠いらしく、瞼の動きは鈍い。うつらうつらしながらコートを羽織りマフラーをして、鞄を背負う。私も手早くコートを着て、ストールを首に巻き付けて鞄を肩にかけた。
「歩きながらでも良い? それともここで聞いた方が良い?」
「歩きながらでもいい。もう暗いから家まで送ろう」
「ええ、いいよそれは。途中まで一緒に帰ろ」
アドニスくんはふっと笑い、そしてさりげなく私の手から教室の鍵を取り上げる。「返してこよう」と当たり前のように名乗りを上げる彼の後ろ姿を見て、ずるいなあ、とそう思ってしまった。
いつもよりも遅い時間だからか、商店街の人は疎らだった。夕飯時だからか、いろいろな家からたくさんおいしそうな香りが街の中へと流れ込む。暖かなその匂いにくうとお腹を鳴らせば「腹が減ったな」とアドニスくんも微笑む。「お腹が減ったねえ」と返事を返しながら、道路向こうに佇んでいるコンビニへと視線を投げた。夜の、紺色に包まれる街の中で、ガラス張りのコンビニからは暖かそうなクリーム色の光が灯っていた。
「うーん、唐揚げ、とか、おでん、とか?」
誘惑に負けてそう提案すれば、アドニスくんは渋い顔をして「夕飯が待っているんだろう」と口にする。真面目だなあ、と肩を竦めて、でも確かに彼の言うとおりだから「はあい」と素直に返事をして、コンビニから目を逸らす。
まだクリスマスまで一ヶ月もあるというのに、街にはサンタクロースやトナカイが跋扈していた。色とりどりのイルミネーションが、街路樹を彩る。光が滴るような電灯を見つけて足を止めれば、アドニスくんも「綺麗だな」と言い歩みを止めた。
「もうすぐクリスマスだね」
「そうだな」
「ケーキが食べられます」
「……? クリスマスじゃなくてもケーキは食べられるだろう?」
「違うんだなあ、情緒があるのですよ、クリスマスケーキは」
「ジョウチョ……?」
アドニスくんは「ジョウチョとは、なんだ?」と首を傾げる。何だと言われたら、何だろう。ふわっとした、朧気な印象しかないその言葉に「……明日教えます」とだけ言い、私は歩き出した。アドニスくんも「楽しみにしている」と返し、私よりも大きな歩幅で歩き出す。歩調を速めながら、帰ったら国語辞典を開こうと、そう決意した。
二人で他愛もない話をしていたら、十字路にさしかかった。アドニスくんは右、私は左へと進めば家にたどり着く。家まで送ると言って聞かないアドニスくんをなんとか説得して「じゃあ」と一人左の道へと足を踏み出した。アドニスくんも渋々、右の道へと歩き出す。
数歩歩いたところで、そう言えばアドニスくん、私に話したいことがあったんじゃなかったっけ、と思い出した。話に花が咲き、うっかり忘れていた。わざわざ教室に残ってまで話したかった事柄なら、聞いておくべきだろう。
駆け足で戻りアドニスくんの背中に声をかける。アドニスくんは振り返り「どうした?!」と小走りでやってきた。
「あ、いや、アドニスくんの話、聞きそびれたなって」
アドニスくんの表情が曇る。曲がり角に設置された街灯が低く唸り一度光を瞬かせた。立ち並ぶ民家の明かりはほとんど灯っているはずなのに、なぜかどうにも薄暗い。
「……その、お前に、聞きたいことがあった」
「聞きたいこと?」
先ほどまで和やかに話していたのに、急にアドニスくんは口ごもる。聞いても良いのだろうか、と迷いの灯る瞳に「気にしないで、何でも聞いてよ」とわざと明るく答えれば、彼は安堵したように表情を和らげて、そして引き締めて私を見下ろした。
「今日、大神と放課後一緒に居たんだが」
「うん」
「朔間先輩がやってきて、その、俺たちに聞きたいことがあると」
「うん」
「……朔間先輩とお前は、付き合っていたのか? と」
口から、えっ、と言葉が滑り落ちる。アドニスくんは気まずそうに視線を彷徨わせながら下ろした両手に拳を握る。
「俺は知らないと答えた。どうして朔間先輩がそう思ったのかはわからない。しかし……」
「こ、うがくんは……?」
「大神は、本人に聞けと」
ストールの中に口を埋め「そっか」と小さく答える。どうして朔間先輩はそんなことを? 情報の出所が晃牙くんでないということは、凛月くんから伝わったの? それとも、他の誰かがこの関係を知っていたということ?
いいや、情報の出所なんてどうでもいい。例えば私が逆の立場だったらどうする? 自分の見知った世界に、知らない人が一人紛れ込み、今まで当たり前に存在していたかのように振る舞う。それが自分の恋人だと伝聞で知る。
容易に想像できる嫌悪の念に、下唇を噛み締めた。ああ、だからやたらと教室に来ていたのか。あれはやはり、推し量っていたのか、私を。
吐き気がした。目の前がくらくらする。もう、どんな顔をして会えば良いのかわからない。
黙りきった私に、アドニスくんは心配そうに名前を呼んでくれた。顔を上げて笑顔を作り「そっかあ」と笑う。そして、付き合ってないよ、と言おうと口を開く。が、言葉が喉に引っかかり出てこない。今まで――隠していた頃するすると出てきていたはずの言葉なのに、どうして。震える唇をきゅっと締めて、もう一度否定の言葉を吐こうとアドニスくんを見上げる。
『お前まで忘れたら、なかったことになっちまう』
晃牙くんの声が、聞こえた気がした。
「……つきあって、た」
私の返答に、アドニスくんは驚いたように目を開いた。狼狽する彼の姿に、ああやはりいけないことだったんだな、と再認識する。自分のユニットのリーダーの恋事情なんて、知りたくなかったよね。しかも狭い界隈で。
そう落ちこんでいた私の頬に彼の指先が触れる。「泣かないでくれ」と懇願するような声に、こぼれ落ちている涙を知った。袖で拭おうとすれば「赤くなるだろう」と彼は困ったように言い、ポケットからハンカチを取り出し私に押し当てた。香水の良い香りがする。女性がつけるような甘い香りに「いいにおいがする」と鼻声で口にすれば「ああ、姉の匂いが移ったのだろう」と言いながら、一生懸命涙を拭ってくれた。
「ごめんね、だめなのは知ってて、だからみんなに黙ってて」
「だめではないだろう?」
「でも、先輩はアイドルだし、私だって、そういうことに時間を割くのだって」
「でも好きだったんだろう。俺はだめだと思わない。朔間先輩も、お前も、俺にとって大切な存在だ。幸せになってほしい」
「でも先輩もう、忘れちゃったし」
「しかし、知ろうとしている」
アドニスくんの言葉に私は顔を上げた。アドニスくんは拭っていたハンカチを、私の手の上に置く。そしてハンカチごと手のひらを掴んだ。まるで捕まえるように、強く。
「お前が朔間先輩を頑なに拒む理由がようやくわかった。でも、朔間先輩がお前を知ろうとしていることを、忘れないであげてくれ」
「でもそれって、値踏みしてるだけじゃ」
「そうだとしたらとっくに見切りをつけている」
アドニスくんに言い切られて言葉を失う。瞬きをしたら、涙が頬にこぼれ落ちた。アドニスくんは私の手からハンカチをとり、そっと頬にあてがう。
「気がつかなくてすまない、無理はしないでくれ」
「アドニスくん」
「もう、朔間先輩と会うのは辛いか?」
彼の優しさと戸惑いが、ほろほろと心に降り積もる。辛いし、本音を言えば離れたいけれど、でも、向き合ってみたいとも思った。最初に比べると随分前向きな意見だ。そう思わせてくれたのは、きっと、二人のおかげに違いない。
「……ちゃんと、向き合ってみる」
真っ赤な鼻をぐずりとならせば、華やかな香りが鼻腔をくすぐった。安心するその香りに、涙を拭われながら「ありがとう」と呟けば、アドニスくんは「気にするな……家まで送ろう。嫌とは言わせない」と小さく笑った。