有明行燈_05

「テメエはここで、なにしてんだよ」
「逃げてる」
「は?」
「朔間先輩から、逃げてる」

 そよそよとそよぐ風も冷たくて、私はストールを首に幾重にも巻いていた。吐き出す息はもう白くはない。その代わり、赤く冷やされた指先をこすりながら屋上の壁に頭をつければ、晃牙くんは呆れたようにため息を吐いて「ああそうかよ」と言って当たり前のように私の隣に腰を下ろした。
 屋上のドアの側面。覗かないと見えないような場所に座っていたのに、なぜこうも簡単にばれてしまうのだろうか。バインダーに挟んだ書類の空欄を埋めながらちらりと晃牙くんを見る。晃牙くんは怠そうに欠伸を漏らして、足を投げ出していた。

「屋上に用事?」
「別に」
「一人になりたかった?」
「別に」

 ぶっきらぼうな回答に、これはおそらく構わない方がいいやつだと私は口を閉じる。

 放課後だからか、下から楽しそうな声がせり上がってくる。はしゃぎ跳ねる声。精錬された歌声。まだ粗暴な演奏。違う音と音が織り合わさりメロディとなり耳に届く。
 夢ノ咲の音だと、私は思った。私の守りたい音だと、耳を澄ましそれを聴く。

 晃牙くんは眠そうにまた一つ欠伸を漏らした。ずりずりとお尻が滑り、彼の身体が地面と近くなる。「汚いよ」と声をかければ、彼はこちらを見て、とうとうごろんと屋上に寝転んでしまった。仰向けになり、一日の終わりを告げる夕焼けを見上げる。
 空は高く遠い。ちぎれた雲が悠々と泳ぐ。

「朔間先輩がね」

 私が口を開いても晃牙くんは反応しない。空欄を埋める速度が緩くなる。昔の――記憶がなくなる前の朔間先輩ではない、なぜかよく絡みに来る彼の姿を思い浮かべながら、口を開けば、随分と乾いた唇が、ぴり、と破けた。

「教室によく来るの。理由はわからないけど」
「だから逃げてんのかよ」
「うん」
「……嫌いになったのか」

 当事者じゃないくせに、随分と声色を落として晃牙くんはそう呟いた。「嫌いになれるわけないじゃない」と弱々しく呟けば、晃牙くんは「そうかよ」と言い頭だけこちらに向ける。琥珀色の鋭い瞳が、心を見透かすように私を射抜く。とうとう止まってしまったペンをバインダーに差して、私は正直に白状した。

「まだ、好きなの」

 晃牙くんは何も言わない。ただ私の言葉の続きを、黙って待ってくれている。彼のこういう――粗暴の裏に隠れる、凪いだ風のような態度が好きだった。何を話しても受け止めてくれそうで、押しとどめていた気持ちや言葉が、少しずつ、顔を出す。

「だからちょっと、つらい。会うのも、話すのも」
「そうか」
「……逃げてるの、だめだね」

 自嘲するように笑えば晃牙くんは茶化すでもなく怒るでもなく、ただただ真っ直ぐに私を射抜き「逃げじゃねえよ」と口を開いた。気持ちを誤魔化すように浮かべた笑いが、潮のようにするすると引いていく。代わりに、笑顔の裏に隠した弱虫が起き上がり「逃げじゃ、ないの?」と言葉を滑り落とさせた。不安がるその声に晃牙くんは「逃げじゃねえ」と言葉を繰り返してくれる。

「向き合いたいと思ってんだろ。だったら逃げじゃねえよ」
「晃牙くん」
「嘘くせえ笑顔もやめちまえ。だったら大声であの馬鹿野郎に、なんで忘れちまったんだ! ってわめく方が何倍もいいっつうの」
「うん」
「……ま、テメエには出来ねえと思うけどな」

 晃牙くんはそう言うと目線をまた空に投げた。見える空は赤いけれど、遠くの方ではもう夜が迫ってきていた。気の早い月が細長く身を伸ばし、宵を待っている。夕方と夜の狭間の冷たい風が、私たちの間を吹き抜ける。

「……逃げてもいいから、忘れるな。あいつとお前は付き合ってて、少なくとも俺から見たら、幸せそうだった」
「……うん」
「お前まで忘れたら、なかったことになっちまう」

 なかったこと。弱々しく呟いた言葉は風に攫われて散ってしまう。
 それは嫌だな、と思った。だってあの日々は確かに楽しくて暖かくて、そして幸せだったから。

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