有明行燈_04
決死の思いで宣言したにも関わらず、朔間先輩はなぜか今日も私の目の前に座っている。卒倒しそうな気持ちを抱えながら「用事がないなら、軽音楽部室に帰ればどうですか」と言っても、彼は嬉しそうに笑顔をたたえて「嬢ちゃんはつれないのう」と私の筆箱のキーホルダーをつついた。あれから数週間。記憶の欠落は大事にしないでおきましょう、との先生の指示の元、この件に関してはユニットと身内である凛月くんのみで保持することになった。欠落、といっても忘れているのは本当に私のことだけで、日常生活やアイドル活動に支障はないらしい。
らしいというのは本人から聞いたわけではなく凛月くんや晃牙くんから又聞きで聞いたからだ。元々の関係を知っているお二人は随分と優しいようで、朔間先輩の様子を事あるごとに教えてくれる。好意から、ということを知っているから邪険にはできないけれど、これを機に距離を空けたい私にとっては毒でしかない。
だからできる限り、私は彼から距離を取ろうと努力した。ユニットへの通告も羽風先輩やアドニスくんを通じて行っているし――晃牙くんにそれをしたら、直接本人に言え、とはね除けられてしまった――依頼がない限り彼らの元へと赴かない。公私混同甚だしいが、このくらいは許してほしい。最低限のバックアップは行っているのだから。
なのに、私の努力もむなしく、彼はよく教室に遊びにきた。昔は一度も来たことがなかったのに、だ。アドニスくんに用事があるのかと思えば真っ直ぐこちらの席に寄り、さも当たり前のように椅子に座り、しかし何をするでもなくじいとこちらを見るだけ。
来るのは大抵日の光が弱まる夕方頃。教室に残らなければいいじゃないか、とも思うけれど、最近はこなさねばならない資料が多くて、教室が一番勝手が良いのだ。
いや、もしかしたら心のどこかで期待しているのかもしれない。記憶が戻らなくとも、都合良く好意が先輩の中に残っていることを。しかし彼の瞳に宿る光はどう見ても「興味本位」にしか見えない。珍獣を見に来るような態度でこちらへと来られるので、淡い期待はいつも打ち砕かれてしまう。
もう来ないで欲しいとおもう。しかし、どこかでこうしてまだ、彼と一緒に居られる時間があると喜んでいる自分も、いるのだ。
「嬢ちゃん」
「なんですか」
「また書類と睨めっこか。昨日とは違う書類……勤勉じゃのう」
先輩が書類の角に指を差し込み、ちろちろと揺らす。「これが私の仕事ですので」とプリントの上に手を置き、指を追い出すようにそれを滑らせれば、先輩は紙から指を引っこ抜いて頬杖をついた。辛辣な態度を取っているのに、なぜか余裕そうな態度がつらい。
「ほう。ところでUNDEADの書類、薫くんやアドニスくん経由で受け取ることが多いんじゃが、別に我輩のところへ持ってきてもいいんじゃよ?」
「先輩お昼寝てるでしょう?」
「普段から寝ておったじゃろう、いつもはどうしておったんじゃ?」
それは、と私は声を詰まらせる。起きるまで待っている日もあったし、起こしたこともあった。こうして他の人に書類を渡したことはほぼ一度もなかったはずだ。先輩が起きるのを待つのは苦痛ではなかったし、起き抜けのぼうっとしたその表情に「おはようございます」と声をかけることがとても好きだった。
ちらつく幸せな情景を飲み込んで「……同じですよ、頼んでました。他の人に」と言葉を吐く。ちりちりと胸が痛い。先輩は「ほんとうかのう」とからかうような声音で言葉を返す。
見透かされたくなくて視線を逸らせば、ゆらゆらとはためくカーテンが見えた。暖房も入っていない、二人しかいない。さらには窓も開けている教室は随分と寒かった。それでも窓を閉める元気もない私は「本当ですよ」とだけ返事をする。
あの日から、私を覆う悲しみはとれない。先輩が「嬢ちゃん」と私を呼ぶ度に、彼の中で『私』はもう『一生徒』に成り下がってしまったのだと理解してしまい、それは一層濃く纏わり付く。
「嬢ちゃん」
彼が私を呼ぶ。私は返事をする。恋人に対する声色ではない、警戒を灯した色で。
「……なんですか」
先輩は立ち上がり、机の上でぶんぶんと鳴り響きだした携帯を握りしめた。
「明日もまた来る」
そうして気ままに出て行った彼の姿を、私はただただ見送るだけだ。もう来ないで、と、まだ一緒に居たい、なんて相反する気持ちが心の中で渦巻く。
誰も居なくなった教室で、小さく吐き出した息は随分と長く、そして深かった。