有明行燈_03

 お疲れ様です、と声高らかに入室した私に、朔間先輩はいつもと同じ微笑みを浮かべた。そして僅かに視線を宙に投げるので、名前を述べれば「ああそうじゃった」と安堵の笑みを浮かべて名前をなぞる。

「ええっと……普段はなんと呼んでいたんじゃ?」
「嬢ちゃん、と呼んでいましたよ」

 私の渾身の微笑みに、先輩は顔を綻ばせて「おお、嬢ちゃん、じゃな」と嬉しそうに言葉を弾ませた。

 今日は生憎の曇天で、窓の外は薄暗い。昨日は晴れていたのに、と思いを馳せれば、昨晩のあの練習室の光景が浮かび心が揺れる。気が緩めば涙が顔を出してしまうので、いいや今は関係ない、と雑念を心の中でふるい落とす。公私混同しないことは、彼と付き合う上ではじめに決めた取り決めだ。例え守る人が私しかいなくなってしまったとしても、それを破る理由には決してならない。

 軽音楽室を見渡せば、珍しく顔を出した羽風先輩、そしてどうやら楽器を鳴らしていた晃牙くんとアドニスくんはじいと私を見つめていた。どうやら全員事情は知っているみたいで、いつもとは違う、ねっとりとした視線に辟易する。

 一挙一動を気にするようなしつこい視線に人知れずため息を漏らすと、おそらく一番蚊帳の外でありそうな羽風先輩の元へと歩く。窺うような視線と「あの」と珍しく歯切れの悪い言葉に、声を潜めて「朔間先輩、私のこと忘れちゃったんでしょう?」と先手を打った。羽風先輩が困ったように口を結ぶので、私はなんてことないように微笑みを浮かべる。

「まあおじいちゃんですからね、どこかでぽっと思い出すでしょう。でももしかしたら他にも記憶の欠落とか、体調不良があるかもしれないので、二枚看板の片割れである羽風先輩がフォローしてあげてくださいね」
「……そうだね」

 羽風先輩は強ばらせていた表情をようやく崩し、そして茶化すように「ほんとほんと。朔間さんったらおじいちゃんだから俺がしっかりしないとね」と朔間先輩に声をかけた。私も先輩の視線を追うように彼を見れば、朔間先輩は困ったように眉を下げて微笑み「迷惑をかける」と素直に言葉を落とす。

「ま、大丈夫大丈夫。俺はしっかり覚えてるから寂しがらないでね?」
「あーもうほんっと光栄の極みです。じゃあ練習の参加率もあがりますね?」
「それは関係なくない?」
「今月の練習参加率、百パーセントを目指して頑張りましょう?」

 そう肩を叩けば「ひゃく?!」と先輩は素っ頓狂な声をあげた。朔間先輩は笑いながら「これは期待せんとなあ」と挑むような視線を羽風先輩に投げる。羽風先輩は恨むように朔間先輩を見つめて「まあ、善処してみるけど」と苦々しく言い放った。
 おお、珍しく前向き。すぐに出る「無理!」とか「やだ!」に比べれば目覚ましい進歩と言えるその発言に私は微笑み、そして晃牙くんとアドニスくんの方へ目線を向けた。ここは、こんなものでいいだろう。次は、あちらだ。

 羽風先輩から離れて晃牙くんとアドニスくんに寄れば、二人は困惑したように私を見つめた。未だにぎゃあぎゃあ騒いでいる先輩方に聞こえないような、か細い声で「無理はしていないか」とか「お前、大丈夫なのかよ」と各々に声をかけてくれた。二人の肩を勢いよく叩いて「大丈夫」と笑えば、アドニスくんは安堵したように笑んでくれたが、晃牙くんは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、そっぽを向いてしまう。まあ、昨日の今日だし。きっと晃牙くんには、強がりな笑顔なんて見破られていると思うし。
 ふて腐れたようにもうこちらを見なくなった晃牙くんから目を逸らして、素直に安堵してくれているアドニスくんを見た。彼の柔らかい笑顔に、ちくりと良心が痛む。

「……よかった。お前が落ちこんでいると不安だったのだが」
「やだなあ、教室でもいつも通り元気だったでしょ? 大丈夫だよ」
「そうか……でも、無理はしないでくれ」

 アドニスくんの暖かい言葉に心の糸が一瞬たわむ。慌てて引き締め直して「任せといて!」と胸を叩けば、アドニスくんは「ああ」と嬉しそうに頷いた。そして不機嫌そうに譜面と睨めっこし出した晃牙くんの名前を呼ぶ。晃牙くんはこちらを振り返ることなく、刺々しい声音で「もう何も言わねえよ」と、そう言った。
 アドニスくんは怪訝そうに晃牙くんを見ていたが、意図の伝わった私は「ありがとう」と小さく呟く。アドニスくんの包むような優しさも、晃牙くんの無骨な優しさも、どちらもとても嬉しい。

 晃牙くんに話せば怒られるかもしれないけれど、あの後延々と悩んだ後ひねり出した答えは『いつも通りの日常を送らせる』ことだった。先輩と付き合っていることは一旦なかったこととして、彼らにはアイドル生活を謳歌してもらう。私は一プロデューサーとして、彼らのサポートに徹し、決して一線は踏み越えない。
 おそらく、これが一番いいのだ。彼にとっても、皆にとっても、いつも通りの日常を送らせることが最善の手だ。
 それが私にとって決して平坦ではない道としても、歩んでいかなくてはならないのだから。泣いたって叫んだって、どうにもならないのだから。

 さて全員にアピールが済んだところで、そわそわとこちらを気にする朔間先輩の元へ歩み寄る。朔間先輩は物珍しそうに私を見つめて「嬢ちゃん?」と様子を窺う調子でそう口にした。いつもと違う蜜に溢れていないその響きにちくりと胸が痛む。こんな些細なことで傷ついてどうするんだと叱咤してみるが、痛みは取れそうもない。

「えっと、昨日ざっくりした説明しかしていなかったので、私について説明しますね……もしかして羽風先輩達からプロデュース科の詳細は聞きました?」
「いや、聞いておらんよ。頼めるか?」
「ええ、大丈夫です」

 お客さんに向けるような満面の笑みを浮かべて、先輩に普段どんな仕事をしているのか、実際アイドル達とどのような関わり方をしていくのかを簡潔に説明していく。昨晩、寝る間も惜しんで台本を書き上げて読み込んだおかげで、すらすらと言葉が滑り落ちてくれる。朔間先輩も私の言葉言葉を真っ直ぐ受け止め神妙に頷いてくれる。

「いろいろ世話をかけたのに、忘れてしまってすまん」

 一通り説明を終えて「質問はないですか?」と尋ねれば、彼はそう、申し訳なさそうに口にした。その言葉に一瞬口が止まってしまったけれど、慌てて微笑み「気にしないでください。おそらく支障はないので」と首を横に振る。

「しかしなんじゃ……プロデュース科といっても、雑用みたいな事もしておるんじゃのう」
「まだテストケースなので……プロトタイプ、とでも思っていただければ幸いです。企画の提出の仕方など、先輩と相違があっては申し訳ないので、こちらで把握しているものはまとめてきました。全て私を通さなければならない、というわけではないので、必要ないかもしれませんが」
「ほう……昨日の今日で随分と働かせてしまったみたいじゃな」
「ああ、気にしないでください。仕事するの、好きなんです」

 そう言えば先輩は驚いたように目を丸くする。傍観していた羽風先輩がこちらへと歩み寄って「そうそう、ワーカーホリックだもんね転校生ちゃん」と嬉しそうに肩を並べてきた。わざとらしく一歩離れて「そうですねえ羽風先輩」と微笑めば、朔間先輩は嬉しそうに「薫くんの扱い方も心得ておるんじゃな」と笑む。

「扱い方ってなにそれ。ま、朔間さんが忘れちゃったならUNDEADと転校生ちゃんの窓口に立候補しちゃおうかな?」
「あ、間に合ってます」
「でも実際居ないと困るでしょ?」
「来年への引き継ぎもかねて晃牙くんとかアドニスくんとかにお願いしては?」

 振り返り二人に視線を投げれば、アドニスくんは「羽風先輩に迷惑はかけないよう、頑張る」と力強く頷いてくれた。こういうとき、いの一番にヤジを飛ばす晃牙くんは、黙って楽譜と楽器を見つめていた。

 拒絶するようなその空気に羽風先輩は小さく笑って「ま、いいけど」と会話を切り上げてくれる。先輩のそういうとこ、とても好きです。小さく羽風先輩に頭を下げると、彼は慈愛に満ちた瞳で一度目を瞬かせ「困ったら頼ってね」と言ってくれた。

 さてここが正念場だ。私はばれないように微かに長く息を吐いて気合いを入れて先輩を見上げる。見慣れた紅の瞳が、見定めるような視線で私を見下ろしている。そういえば、彼からこんな視線を随分と浴びたことがなかった。出会った当初の頃を思い出して――彼にとっては初対面なのだけれど――怯んでしまう。いいや負けるな。そう思い、散々練習した笑顔を浮かべて「朔間先輩」と口を開いた。

「先輩にとっては初対面で、信頼に足らない存在かもしれません。ましてや卒業前で、積み重なったユニットによそ者を介入したくない想いもあるでしょう。だから、無理に頼ってくれ、なんて言いません。必要になったら、必要になっただけ呼んでください。私は貴方たちを、アイドル達を輝かせる為に存在するのですから」

 信頼に足らない、だとか、よそ者、だとか、自分の言葉が槍のように降り注ぐ。昨日口にして、どうしても涙が止まらなかった言葉達。どうやら私は本番に強いらしく、笑顔を崩さないままその台詞を言い終えることが出来た。
 朔間先輩は虚を突かれたように目を丸め、そして先ほどの値踏みするような視線を和らげて「……ありがとうな、嬢ちゃん」とぼそり、呟いた。

 もう、怖くて晃牙くんの方は振り返れない。虚勢で固められた建前は、私と、記憶がなくなった先輩の距離を再確認するために必要な言葉だ。この宣言なくして、私は彼と向き合えない。

「無理して親密になる必要はないです。適度な距離で、居ましょう?」
「そうじゃな」

 自分に言い聞かせるように先輩に微笑みかければ、朔間先輩は嬉しそうに笑ってくれた。ああよかった、無事に終わった。そして、始まってくれた。新しい関係の確立に、もはや心はべこべこだ。
 だけど、意地でも笑う。笑顔は武器だ。気持ちを隠すには一番効率の良い武器。笑え。決して、顔を曇らせるな。

「じゃあ、私はこれで。次の予定もあるので」
「えー、帰っちゃうの?」
「帰っちゃいます。先輩、ライブも近いんですから練習してくださいね?」
「言われておるぞ、薫くん」
「朔間さんに言われなくてもわかってますー」

 全く嫌になる、なんて表情を隠しもせず露わにする先輩に苦笑を浮かべて、私は逃げるように軽音楽部室を飛び出した。終始だんまりだった晃牙くんが気になるけれど、きっと気にしてはいけない。

 扉を閉めて、安堵の息を吐けば、耳元で大きく聞こえる心臓の音に気がついた。緊張した。へまはしていなかっただろうか。そっと両手で頬に触れれば、乾いた肌が泣いていないことを教えてくれる。そのまま両手を合わせ、暖めるように口元へともっていく。

 よかった、うまくできた。

 緩む緊張に心の糸がふっと緩む。じわじわとせり上がってくる悲しみを無理矢理笑みを浮かべて押し殺す。辛いときこそ笑えというのは、アイドル達と現場に出て、身をもって学習した。

「アイドルとプロデューサー。適切な、距離」

 言い聞かせるように呪文を唱えて、私は足を踏み出した。まだ今日は沢山やることが残っている。泣くのはまた、家に帰ってから。

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