有明行燈_02
「おい」「……」
「聞いてんのか」
「……」
「おい!」
知らんぷりをしようと思っていたのに、いよいよ大きくなるその声に観念して、私は振り返った。強ばる顔で睨み付ける私を見て、晃牙くんの動きが一瞬止まる。そんな態度をとるなら、はじめから呼び止めなければ良いのだ。心の中で竜巻のように荒れ狂う苛立ちをぶつけてしまいそうで、歯を噛み締めてそれをこらえる。
私の周りを囲むように包んでいた悲しみは、先輩から遠ざかり、一歩一歩歩く度に身体に染みこんでいった。吸う空気から、行き場のない指先から、悲しみがじわじわとせり上がり瞳に溜まる。ひどく、目の前が熱い。
揺れる視界をなんとか押しとどめているのは、泣くものかという私の意地だ。
「お願いだから、黙って」
涙がこぼれる前に振り返り、また歩き出す。下校間近なことも幸いして、今のところ誰ともすれ違っていない。すれ違ったとしても、薄暗いここならば顰めっ面な顔もきっと目立ちはしない。
そうしてただ行き先もなく歩く私に、控えめな足音は絶え間なくついてきていた。素直に『黙って』連なる足音に、ついてこないでと言えば良かったのか、と下唇を噛む。暫く歩いて、しかし耐えきれなくて歩みを止めれば、足音もピタリと止まる。振り返れば、先ほどの威勢はどこへやら、晃牙くんはばつが悪そうに俯いて「悪い」と呟いた。しんとした廊下にその声はやけに響いた。まるで世界に私と晃牙くんしかいないような静寂の中、悪いのは晃牙くんじゃない、と心の中で呟く。そうだ、晃牙くんは、これっぽっちも悪くないのに。
「……晃牙くんは、謝る必要なんて、ないよ」
晃牙くんはそんな私を見つめて悲しそうに「悪い」ともう一度呟く。
「俺は、何も出来ない」
謝らせたことが悲しいのか、それとも彼にそう思わせてしまったことが悲しいのか。晃牙くんの言葉を聞いて、今までなんとか保てていた意地が決壊した。ぼたぼたと溢れる涙に晃牙くんは狼狽え、そして慌てて私の手を引いて歩き出す。
私は引かれるがまま歩きながら、ああこれは甘えだ、となんとなくそう思った。こうして苛立ちをぶつけたい気持ちも、なされるがまま歩いているのも全て、私は彼に甘えているのだ、と。
随分矮小な自分が嫌になって、涙声で「ごめん」「ごめんね」と繰り返せば「喋らなくて良いから、落ち着け」と晃牙くんは振り返らずそう口にした。何度も頷いて、それでも滑り落ちる謝罪の言葉に、今度は晃牙くんが「いいから、黙ってろ」と存外優しい口調で諭してくれる。鼻をずびりと鳴らして、口を閉じた。際限なく浮かぶ弱音が、頭の中で乱舞する。かなしい。つらい。どうして。なんで。全て喉奥で押し込めて、ただ彼が導くままに足を動かした。
彼が鍵を開け滑り込むように入った練習室は、随分と人が居なかったらしく、冷たい空気で満たされていた。途中から地面しか見ていなかったから、ここがどの位置の部屋かはわからない。目の前の鏡を見れば泣きはらし真っ赤な顔をした自分がいて、恥ずかしくなりその場に座り込む。
膝を立て、顔を埋めた私の隣に、何かが座り込む気配を感じた。顔をほんの少し上げれば、人一人分の距離を開けて、晃牙くんが座り込んでいた。ばちりと合う目線に、晃牙くんは口を開かずに鞄からタオルを出し投げつける。私も嗚咽交じりにお礼を言ってそのタオルに顔を埋めた。晃牙くんのにおいがする。香水なんて華やかな香りはしない。獣くさくて、そして優しい、心から安心する香りだ。
「やっぱり、いけないことだったんだよ」
言葉を探している晃牙くんを見ながら、私は口を開いた。彼は黙ってじっと、私を見つめる。暗闇に、私の弱音が響いた。波紋のように広がる悲しみが、また私の身体を侵食する。
「アイドルと、プロデューサーが、付き合うなんて、天罰が下ったんだ」
「お前……」
「だって、そうとでも、おもわないと、そんな、わたしだけなんて」
私だけを、忘れてしまうなんて。どうにも出来ない現実が悔しくて、誰にもぶつけられない怒りが苛立ちとなり涙を溢れさせる。晃牙くんにぶつけるべき感情ではないということは、頭では理解している。でも、どうしてもだめだった。
「あこが、れのっ……せんぱいで、あれば、よかったのに」
「……」
「欲を出したせいだ……きっと、きっと……」
嗚咽を漏らして、涙の水溜まりをつくり、情けない、どうしようもない弱音をぼろぼろと吐き出す。晃牙くんはただただそれに耳を傾けてくれた。同意も、叱咤もなく、ただただその言葉を受け止めてくれた。
どのくらい経っただろうか。泣きすぎて痛みはじめた頭に顔を顰めれば、晃牙くんは黙って鞄からスポーツドリンクを取り出した。半分ほど減ったそれは、彼の手が動く度にちゃぷりと揺れた。
「飲みかけで悪いけど、それしかねえ」
受け取って口をつければ、今まで荒れ狂っていた苛立ちが、徐々に静まるのを感じた。失った水分を取り戻すように勢いよく飲み干したそれを見て、晃牙くんがようやく小さく笑う。つられて表情を崩せば、彼は「ごめんな」と小さく呟いた。
「俺は、力になれそうにない」
「うん、私こそごめん。なんか、取り乱しちゃって……びっくりしたから」
「……落ち着いたか?」
「まだ混乱してるけど、うん」
先ほどの抜き身の言葉が恥ずかしくて身を縮まらせれば、晃牙くんは一つため息を吐いた。顔を上げて、首を反らし、後頭部を壁につける。
「お前のことを知らないって言ったとき、マジで悪い夢かと思った」
随分と疲弊した声だ。私も顔を上げて、壁に体重を預ける。ひやりと冷たい壁が背中を冷やす。見上げれば、薄暗い天井に蛍光灯が見えた。スイッチを入れていないので、当然光ることもない。ただ天井から、私たちを見下ろしている。
「……私だけ? レッスンに支障はなさそう?」
「そういう心配は後でもいいだろ。お前、朔間先輩に言わねえのか?」
「なにを?」
「……付き合ってたこと」
付き合ってた、こと。心に落ちたその言葉を拾う勇気もなくて、現実から目を逸らすように瞼を閉じる。表面を覆っていた涙が、頬を伝った。
そうだ、私と朔間先輩は付き合っていたのだ。ほんの一ヶ月前から、人目を避けるように、こっそりと。晃牙くんと凛月くんと、当人しかしらない、四人だけの秘密。もう、三人だけの秘密になってしまったけれど。
「……うん、言わなくて、いいかなって」
「なんで」
「だって、朔間先輩から見たら、私」
しらないひと、じゃん。尻切れトンボになる言葉の代わりに、ぼたぼたと涙がまた落ちる。晃牙くんは身を起こし私を見て、そして黙ってまた壁にもたれかかる。
苛立ったように「わけわかんねえよ」と呟かれる言葉と、叩かれる床。私の言葉に対してではないことはわかっている。耳を澄ませながら、ごめん、と心の中で呟く。
行き場のない感情が暗闇に溶ける。止まる気配のない涙を流しながら、もしかしたら神様が正しい筋道に直してくれたかもしれない、なんてそんなことを思った。それでも大切な、楽しかった思い出が私の思考を阻害して、感情を揺さぶる。
時間が止まればいいと思った。時間が止まって、明日が、未来が来なければ良いと、心の底から呪いをかけた。抗うように響く秒針の音が部屋に満ちる。
為す術のない大きな現実に蝕まれながら、私はひとつ鼻を啜った。ぽたりと、涙がまた、床に落ちた。