有明行燈_01

 ぽっかりと記憶が抜け落ちてしまった、なんて信じたくないことをこの人はなんてことないように口にした。「ぽっかりと」と言葉を繰り返す私に彼はもう一度頷いて「ああ、ぽっかりと。だからその、名前を教えて貰っても良いかのう」と言う。
 他に悪いところはないのかとか、もしかして頭でもぶつけたのか怪我でもしたのか、だとか心配しなければならない点が沢山あったのに、真っ先に押し寄せてきた悲しみの波が、全て思考を絡みとってしまう。忘れてしまった? 先輩が、私を?

 思考が停止してしまい何も言えない私の代わりに、隣に居た晃牙くんが私の名前を朔間先輩に告げる。先輩はその名前をなぞり、しかし覚えのないように首を傾げた。決定的だった。私の中でなにかが、音を立てて崩れ落ちた。そうかこの人は本当に、本当に『私だけを』忘れてしまったのか。

 嘘であれば良いと思った。到底許しがたいけれど、そちらのほうが幸せだと思った。だけど非情な現実は「すまん……本当に、覚えておらんのじゃ」という彼の言葉を耳に届ける。私はその言葉に返事することはなく、ただただ信じたくなくて手の甲を抓ってみた。じんわりとした痛みが、ここが現実だということを知らしめる。
 なにか言わなければならないのに、うまく言葉にならなくて、先輩を見上げながらただ立ちすくむしか出来なかった。バインダーを胸で抱えて、爪が白くなるくらいにしかりと掴む。

 夏の怪奇というには随分と遅く、外では木枯らしがびょおびょおと吹きすさんでいた。揺れる木々に付く木の葉は赤い。軽音楽部室から見える紅葉を「もう少し色付いたら見に行こうか」と笑ってくれた約束がふと頭に浮かび、心に沈む。もう叶うことのない――いいや、知る人の居ない約束は崩れ、悲しみとなり沈殿する。

 しかし、不思議と涙は出なかった。

「せん……ぱいは、えっと、他のことは覚えているんですか?」
「おそらく。新曲のことも知っておったし、近くにあるライブのことも、知っておったよ」
「……そのライブのことを伝えに来た人は、覚えてます?」
「……はて」

 先輩の顔が険しくなる。どうやら思い出せないようだ。こうもピンポイントに記憶を欠落できるものなのだろうかとも思ったけれど、実例が目の前にいるのだから仕方がない。
 申し訳なさそうに謝る彼の顔に、悪戯の欠片はない。どころか、隣に佇む晃牙くんでさえ、言葉を選びながら、困惑した表情で「こいつが持ってきたんだよ」なんて朔間先輩に補足説明をしている。先輩は晃牙くんの言葉に私を見やり「ああ、女装のアイドル、とかではなく」と独りごちる。言葉に詰まる私に、慌てて晃牙くんがプロデュース科のこと、試験導入のことをかいつまんで話してくれた。

 私はただその二人をぼうっと眺めていた。いや、ただ眺めることしかできなかったのだ。口を開けば余計なことを言ってしまいそうで、唇をきゅっと結んで先輩を見上げる。
 鋭いその視線に、先輩は晃牙くんから視線を外し、こちらをじいと見つめた。

「プロデュース科」

 まるで初めて聞いたかのように、先輩はその単語をなぞる。晃牙くんが居心地の悪そうに顔を顰める。私はとくとくと注がれた悲しみの海の中、ゆっくりと頭を下げた。

「……そうです、プロデュース科の生徒です。学年は二年。先輩のユニットの、アドニスくんと同じクラスです」
「おお、アドニスくんと。ということはわんこや凛月とは違うクラスなんじゃな?」
「そうですね、隣のクラスです。先輩とはライブやレッスン等で一緒になることが多いと思います。もう半年もありませんが、宜しくお願い致します」
「礼儀正しい子じゃ」

 嬉しそうな先輩の声が、頭の上を通り過ぎる。自分の口にした「もう半年もない」という言葉が身体を駆け巡り、鈍く心を揺らす。

 これはきっと罰なのだ。私が、身に余るものを望んでしまったから、神罰が下ったのだ。

「……その、誰かのドッキリとかでは、ないよな?」
「……残念ながら、ドッキリじゃないです」

 確かめるように呟いた先輩の言葉に、私は顔を上げて小さく笑った。晃牙くんが不機嫌そうに私を睨んで、そして先輩にも鋭い視線を投げかける。
 睨んだって現実は変わらないでしょう、と言いたい言葉を抑えて晃牙くんにも微笑みかけた。彼は少し怯んだようにこちらを見て、そして顔を背けた。

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