愛の鉄槌を食らえ_04
いつから彼らを完璧に見分けられるようになった、なんて、今やもう覚えていない。しかしその契機となったあの日のことは、良く覚えている。それは返礼祭よりも少し後。春の匂いが一層濃くなった、長期休みのある日のことだった。春休みは、いつもより仕事が少ない。代替わりも終わり、次の世代もまだ入学していない学院には、緩慢な空気が流れていた。休み前にかき集めた仕事の最終報告にと登校していた私の胸には、もはや色あせた青色のリボンが垂れ下がっている。ずっと同じ物を使っていたから、流石にくたびれるか。窓ガラスに映る元気のなくなったそれを結び直し、そうかもうすぐ一年経つのかと、蕾の実る木々を見上げた。
一年前は、ここを緊張して歩いたんだっけ。春から転入するから、と言われ見学にきたときも、ここは閑散としていた気がする。映画のセットのような綺麗な教室。時折聞こえるささやかな歌声。今まで自分の属していた学校とは大きくかけ離れたそこに、差しが私立、だとか、これがアイドル科、とか、羨望を帯びた気持ちを胸中に抱いていたはず。
もう見慣れてしまった廊下を眺めて、私はゆっくり歩き出した。今日は何をしようか。一年前のあの日と同じように、歌声はどこかから、微かに聞こえる。声がするということは、人が居るということは、私に出来ることがあるかもしれないということ。もはや病気じゃないの? と揶揄されるこの性分は、一年やそこらでは代えようがないらしい。たおやかに満ちる歌声のする方へ、私の足は向いていた。
声がする方へと歩いていたら、道中、見知ったギターケースが視界を横切った。歩みを止めてそちらを見ると、知っている銀髪がゆらゆらと揺れている。大神晃牙だ。私は歌声に背を向けてそちらへと駆け出す。どうやら音楽を聴いているようで、私の足音に彼は気がつかない。
一歩後ろに立ってみても、彼は真っ直ぐに前を見て歩いていた。微かに聞こえるドラムの音に「耳が悪くなるよ」と小さく囁けば彼はぎろりと視線だけこちらにくれる。驚き足を止める私に、彼は悪びれもなく「なんか用か」とつっけんどんに言葉を放った。
「いや、用事というか、私はないけど」
「なんだそれ」
「私はないけど、晃牙くんはあるんじゃないかなって」
「はっきり言え」
「仕事、ない?」
「馬鹿かお前」
いや、疑って悪かった。馬鹿だな。晃牙くんはそう言ってギターケースを担ぎ直す。眉を寄せる私に負けないくらい眉間に皺を寄せて「大体休みだぞ、今日」と怪訝そうに制服姿の私を眺めた。なにそれ、晃牙くんに言われたくないんですけど。抗議の意味を込めて思い切り顔を顰めながら「晃牙くんだって、休みじゃん」と言えば彼は見せつけるようにギターをもう一度抱え直し「家じゃ弾けねえから、来てるだけだ」と言った。
確かに彼は一人暮らしだが――もしかしたら実家に帰っているかもしれないが――防音設備のない部屋で暮らしていたように思う。外部のスタジオを借りるよりも学校に来る方が遙かに安い。それに春休みなら、平日とは違い部屋も空いているはず。
「そっか、それならしっくりくるね」
「で、お前は何だ? 暇を持て余したからわざわざ制服着てここまできてんのか?」
「違いますう、仕事の報告ですう」
「ならさっさと報告して来いよ」
「おわりました」
「帰れよ」
「暇じゃん」
私の返答に晃牙くんは深々とため息を吐いて、諦めたようにこちらを見つめた。そしておもむろに目の前――私の方を指さして顎でしゃくる。
「……茶、二本買ってこい。あと菓子。塩辛いのと甘いのを一種類ずつ。軽音部室にいるから金はそのときに払う」
まさか言いつけられるとは思わなくて目を瞬かせていた私に「行かねえのか」と彼は急かすように口を開いた。慌てて片手を額につけて「ラジャー!」と言えば彼は呆れたように笑い「さっさと行け」と追い払うように手を払った。彼の言うとおり、早く行かないと購買が閉まってしまう。すぐに済む仕事だとしても、頼まれたことは完遂したい。
「ちゃんと待っててね!」
声を張り上げれば、晃牙くんは「ああ」と短く返事を返した。
お客さんがいるかと思っていたのに、軽音部室には晃牙くんしかいなくて、買ってきた物を彼に渡せば、一本お茶を手渡された。そして手頃な机に買ってきたお菓子を彼は拡げると「食って待ってろ」とだけ言い弦を指ではじき始めた。
「野放しにしたら誰かに迷惑かけるだろ」
「そんな人を野良犬みたいに!」
私の激高もどこ吹く風。晃牙くんは弦をはじいてはそれを締めたり緩めたりを繰り返す。「久々に弾くからな」と呟き続けるチューニングは、ぽとんぽとんと小さく音を落とす。お茶のキャップを開けて彼を見つめれば、晃牙くんは弦から目を離さずに「新曲、出来たから聞かせてやるよ。意見聞かせろ」ととても人に頼むような口ぶりでない、高慢な口調で小さく笑う。
「うん、聞く」
素直に頷けば、 晃牙くんは「腰抜かすなよ」と笑った。抜けても椅子に座ってるから大丈夫だもん。そう思いながら、私は浅く座っていた腰を上げて、深く椅子に座り直した。
チューニングが終わりすぐに聞かせてもらった新曲はUNDEADで歌っていた物よりも随分とシンプルな曲だった。聞けば、どうやらアドニスくんと二人で歌うことを想定した歌らしい。後輩を入れることには前向きだけれど、必ずしも入るわけではない。言わば保険だと称すその歌は、保険にするには惜しいくらい、良い曲だった。
私が拍手をしていると、彼は満更でもない様子で椅子に座り、そして広げていたチョコレートに手を伸ばす。口に入れて転がす彼に、約束通り感想――というよりも賞賛に近い――を伝えれば、ふん、と一度鼻を鳴らす。口に小さな笑みを浮かべながら「褒められるのも悪かねえけど、改善点とかあるだろ」と彼は瞳を輝かせた。差し出がましいとは思いつつも気になった点を述べれば、彼は素直にそれを受け取り譜面に何かメモを書き込む。そしてギターに手を伸ばして、曲の切れ端を鳴らし「違うな」とか「こうだな」とか言葉を漏らしながら調整を始める。真剣なその横顔に「好きなんだね」と呟けば「当たり前だろ」と譜面を見つめながら、彼は呟いた。
ようやくひとしきりの曲をさらい、彼は椅子に腰掛け首を逸らし、長く深く息を吐いた。空気が抜けるようだと思いながら、じいと彼を見つめる。外はもう茜色で、夜がもう底まで迫っていた。ずっと聞き入っていたから気がつかなかったけれど、もうそんな時間が経ったのか。
「助かったよ。一人じゃわっかんねえもんな、こればかりは」
「お役に立てたようで、なにより!」
「流石だなあプロデューサーさん」
晃牙くんが身体を起こして「もうこんな時間か」と呟く。私が頷けば、彼は神妙に目を閉じて、そして開き私の顔をじっと見つめる。機嫌が悪い顔ではない。皺の寄っていない眉間を見つめ返せば「よし」と彼の決意に満ちた声が聞こえた。
「付き合わしちまったからな、テメエの話でもきいてやる」
「私の話?」
「この一年いろいろあったろ。一人で解決できねえ話とか、聞いてやるつってんだよ」
その言葉に浮かぶ返礼祭のひなたくんとのやりとり。顔を曇らせてしまったのか「マジでなんかあんのかよ」と晃牙くんの声が聞こえた。あるといえばあるし、ないといえばない。言わば彼の身内の話だし、と口ごもれば「いいから言ってみろよ」と晃牙くんはペットボトルのキャップを開けて、お茶を傾けた。
杭のように胸にとどまるその話をすれば、晃牙くんは顔を曇らせた。やはりまずかったか。一番中のいい後輩だもんね。自分の軽率さに落ちこめば、晃牙くんはポテトチップスをつまみながら「わっかんねえな」と呟く。
「……ひなたくんの、意図?」
「違えよ。んなしょーもねえやっかみ、今までもあったんじゃねえの?」
「確かに」
「ひなたの言葉ももっともだけどよ、んな何日も気にするような事柄でもねえだろ」
晃牙くんの言うとおり、恋だの愛だのを疑われることは珍しくない。顔の整った男の集団の中の、紅一点。友達も、先生も、そして一緒に仕事をした人でさえ面白半分に茶化してくることは、ままある話だった。
だから気にしないでいられたはずなのに、なぜひなたくんの言葉はこれほどまでに胸に刺さっているのだろうか。真摯に言われた言葉だから? 身近なアイドルからの疑いだったから? きっとおそらく、そのどちらともちがう。
「……わかんないな」
でも、わかりたいと思った。晃牙くんに話して、想いを口に出して尚のことにそう思った。朧気な違和感の輪郭が、徐々に見えてきた気がする。でもまだわからない。なぜわかりたいと思うのか、そしてこの杭がなぜ刺さっているのか、そしてこの杭はなんなのか、今の私には検討もつかないけれど、わかりたいと、そう思った。
「ひなたくんのこと、知ったらわかる?」
「さあな、わかるかもしれねえし、わかんねえかもしれねえ」
「そうだよねえ」
今まで特別意識のしたことのなかった後輩。双子の一人で、弟よりも少しだけ大人っぽくて、背伸びをしがちで、朔間先輩からよくないことをいろいろ教わっている、男の子。
ひなたくんの顔をぼんやりと浮かべながら「葵ひなた」と呟けば「まずは見分けるとこからだな」と晃牙くんが言う。見分けるったって、晃牙くんみたいに鼻がいいわけじゃないし。
「前途多難だなあ」
空を見上げれば、綺麗な茜色が見えた。仲睦まじく飛んでいく二羽の鳥を見ながら、もう一度「あおいひなた」と私は彼の名前を口にした。