Home_03

「順調?」
「いや、まだまだだな」

 晃牙くんは箸先で刺身を掬い口の中へと放り込む。幾分元気な顔を見て私は安堵の息を吐き、そろそろと刺身のつまをお箸でつまんだ。今日は雨が降っていないから、外は随分と静かだ。時折駆け抜ける車の音と、お箸がお皿にかち合う音しか響かない。タダ黙々と目の前の物を消費しながら、私たちはぽつりぽつりと言葉を零す。

「……そっか」
「でも、昔よりは話を聞いてもらえるようになった」
「そうなの?」
「ああ、でもまだだ、まだこんなもんじゃ、認めてもらえねえ」

 ぽつりと零した「頑張るね」の言葉に晃牙くんは箸を止めて私を凝視した。失言だったかと口を結ぶ私に、彼は呆れたように「当たり前だろ、俺様はあいつを追い越すんだ」と鼻を鳴らして、そしてまた刺身に箸を伸ばす。てらてらと輝くサーモンを掬うとそのまま醤油皿の中へ。雫を零さないように慎重に口へと運んで、彼は噛み締めるように何度も何度も口を動かす。

 初めて晃牙くんがこの部屋に来たときは春の頼りない暖かさに見合う薄いカーディガンを羽織っていたのに、今や彼は冬に備えて少々着ぶくれのするそれを羽織っていた。もうこの奇妙な会合も半年も経つのか。頻繁に来るわけではないが、週に一度は必ずやってくるこの狼は、最近になってようやくこの部屋でご飯を食べるようになった。当初の即ベッドから考えれば、大きな進歩ではないだろうか。

 半年の勉強の甲斐もあってか、朔間さんの態度は軟化したらしい。はじめは相手にされなかったのに、今ではどうやら一曲だけ――このたった一曲が大きな進歩なのだと晃牙くんは熱く語っていた――聞いてもらえるようになり、そしてほんの僅かにアドバイスを貰えるようになった。
 UNDEADはまだ二人で活動している。歌さえ歌っていないものの、彼らにはグラビアがある。雑誌に映る彼らの写真を見るたび、息災なのを喜べばいいのか、さっさと晃牙くん達を迎え入れて欲しいと思うべきなのか、複雑な心境が胸中を襲う。

「晃牙くん」
「なんだよ」
「よかったね」

 小さく笑えば、彼は手短にあった私の授業資料を丸めて思い切り頭を叩いた。軽い痛みを大げさに痛がりながら「なんなの?!」と声を荒らげれば晃牙くんは顔を顰めてもう一度紙を私の頭に振り下ろす。

「辛気くせえ顔しやがって。見てろよ、あんなクソヤローなんてすぐに抜いてやっから」
「抜いてやるって半年間ずっとここで落ちこんでるくせ、いったい!」
「うるせえよ充電だ充電! つうかお前もほいほい男を家に上げるな!」
「でも私が拒んだら晃牙くん充電場所ないじゃん」

 ふて腐れたように視線を外せば、晃牙くんは「別にここしかねえわけじゃねえよ」と言葉を吐いた。脳裏に、彼が憔悴しきった顔で見知らぬ女性の家に上がり込む景色が想像できて彼を見れば、どうやらその狼狽っぷりが面白かったらしい、晃牙くんは心底楽しそうに笑みを浮かべながらビールをあおり「テメエが寂しがるから来てやってんだよ」と、心の奥底を見抜いたような言葉を続ける。
 返す言葉がなくて悔しくて、私もレポートを丸くまとめて晃牙くんの背中を叩けば、彼は「へなちょこ」と笑う。笑いながらビールをあおって、ため息を吐いてお皿に箸をのばす。縁に当たった箸先がかつん、と音を立てた。丸めたレポートを膝元に置き、私も箸を取り上げれば、彼は掴んだ刺身を私の醤油皿に落とした。

「もう少しだけ、付き合ってくれ」

 そのまま刺身に手を伸ばす彼の横顔を見て、私は醤油皿に浮かぶ刺身を取り上げた。好きなだけ居てくれていいよ、なんて浮かんだ言葉は決して口にはしない。小さく相槌だけ打って食べた刺身は、随分と塩辛かった。

←02  |top|  →04