あしたもいっしょに、いてもいいですか?_06
海洋生物部は、学院の一部とは思えないほど蒼に満たされていた。羽風先輩は臆面もなしに部屋へ入っていくので、私は小さく「おじゃまします」とだけ告げて恐る恐る足を踏み入れた。入ったことがないわけではないけれど、そう頻繁にくるわけでもない。魚が所狭しと踊るその部屋を眺めていると、羽風先輩がひとつ、大ぶりなぬいぐるみを手渡してきた。
「それ、奏汰くんの。つかっていいんじゃない?」
「ありがとうございます」
「いいのいいの、俺も帰るかどうしようか迷ってたとこだし。落ち着いたら帰ればいいよ」
「……聞かないんですか?」
「聞きたいけど、聞いていいの?」
先輩の優しいその言葉に、声が詰まり目を伏せる。部室の中央に置かれた一際大きな水槽に、クラゲが踊るように揺れている。近寄れば、ガラスになんとも情けない顔が映る。膨らんでしぼんで、穏やかに泳ぐクラゲを見ながらぬいぐるみを抱きしめる。
ほんの小さな、ポンプの音にかき消されるような声量で「好きな人がいるんです」と呟けば、羽風先輩は驚くように目を見開いて「え? いまさら?」と口にした。
「い、今更って何ですか今更って!」
「アドニスくんのことでしょ?」
「そ、そう、です、けど……」
消え入りそうな声で呟けば「前から知ってたけど」と羽風先輩は平然と言ってのける。「私は今知ったんです」と言えば、先輩は合点が言ったように頷いて、そして柔らかく笑んで「そっか、それでびっくりしちゃったんだ」とこちらへと歩み寄った。
円柱状の水槽の前。私と先輩は並び立ってクラゲを見つめる。お昼ご飯のアドニスくんよりも随分と近い距離なのに、驚くほどに心臓は平静だ。そうか、そんなにアドニスくんが好きだったのかと思い知ってため息を吐けば、先輩は「アドニスくんがうらやましいなあ」と嬉しそうに笑った。
「その割には、楽しそうですけど」
「うん、青春だねー、と思って」
ぎゅうとぬいぐるみを抱けば、先輩は笑って「いいんじゃない? アドニスくんいい子だよ」とひとつウィンクを投げる。良い子なのは十二分に知っているけれど、アドニスくんがどうではない。アイドルに恋をするのが悪いのだ。
私は眉を寄せて「叶わないなら知らなきゃ良かった」と可愛くない言葉を吐き出す。羽風先輩はその言葉を諫めるでも驚くでもなく、ただただたおやかな笑顔を浮かべて「今はここに、俺しかいないよ」と言った。
「口は堅い方だからね、黙っててあげるから、思ってること言っちゃいな。何のためにここまで連れてきたかわかんないじゃん」
「……先輩」
「なあに?」
「わたし、私は……」
ちゃんとそれを言葉に出せば、心の隅々まで認めてしまうような気がして、強く口を結ぶ。しかし気持ちは溢れるもので、口にしなくともぼろぼろと目から涙が溢れた。頬を伝い、涙が唇を湿らせる。緩くなった唇の隙間から、塩辛い涙が染みる。「私は?」と先輩の優しい声が聞こえる。わたしは。心の中で反芻する。そして先ほど間近で見た彼の顔、お昼の出来事、今までの思い出を浮かべて、ひとつ、唾を飲んだ。
「アドニスくんが、好きです。でも、伝えたら、もう今みたいに一緒に居られない気がして」
「うん」
「アイドルとプロデューサーだし、そもそも友達同士だし」
「うん」
「気まずくなって、一緒に居られないのは嫌。明日も、あさっても、会いたいんです」
ボロボロこぼれる情けない言葉も、先輩はただただ頷いて聞いてくれていた。ぐずりと鼻を鳴らすと、先輩はポケットからハンカチを一枚取り出す。そのまま差し出されて、戸惑い彼を見れば「使って」と一言。受け取って頬に当てれば、ブレザーと同じ、優しい羽風先輩の香りがした。
「いいことを教えてあげよう」
「いい、こと?」
「恋はね、落ちたからおしまいじゃないんだよ。ここからスタート」
「スタート……?」
「そ。ゴールはアドニスくんと付き合う、そこにたどり着くまでキミはあの手この手を使ってアピールをしなきゃいけない」
「薬とかですか……?」
「なんでそうなるかなあ、ほら買い出しとか、設営とか、アドニスくんを積極的に頼ればいいよ。あの子だって頼られると喜ぶでしょ?」
お昼に告げられた『いつでも頼ってほしい』が頭の中に巡る。黙っていると、羽風先輩は笑って「その顔は心当たりがあるって感じ?」と私の顔をのぞき込んだ。慌てて飛び退いて首を横に振れば、羽風先輩はまた笑い「ま、いいけど」と肩を竦めた。
「でも、別に付き合いたいわけじゃないです、だって」
「アイドルだから、でしょ? これは予想だけどね、いずれ欲しくなるよ」
「欲しいってそんな、物みたいな……」
「まあ言葉は悪かったけど、恋ってそんなものだから。どうしようもなくなったそのときに、告白でもすればいいんじゃない?」
気楽に言ってのけたその台詞に、私が眉を寄せれば「大丈夫、きみなら」と先輩はくしゃりと頭を撫でた。
「大丈夫、きっとうまくいく。だめになったらまたここへおいで」