あしたもいっしょに、いてもいいですか?_05
予報通り、午後の授業が経るにつれ、厚い雲から太陽が顔を出してきた。島のようにずんぐりむっくりに分かれた雲の塊は穏やかに空を流れていく。放課後も半ばに入ればもう青空の方が勢力を増していて、干上がりかけた小さな水溜まりに日差しが反射してキラキラと光る。
明日はよく晴れるといいなと、そう思いながら頼み込んで作ってもらった小さな仕事をこなしていく。ボールペンを走らせながら「ジャンキーじゃん、たまには早く帰れば?」なんてお小言混じりの先輩の優しさを思い返して頬を緩ませる。瀬名先輩はお小言は多いが一番仕事を振ってくれる気がする。
そんな彼から頼み込んで作ってもらった仕事――月永先輩の手書きの五線譜を清書するお仕事は、想定していたよりも随分根気のいる作業に思えた。いつも彼から指導を受けるときに受け取っていた五線譜は、手書きなれど綺麗に音符が並んでいた。しかし手渡された紙を見れば、流れは沿っているものの、上へ下へと自在に五線譜が揺れている。迷路のようなそれをなんとか追いかけながら、一つ一つ丁寧に並べ直す。順路は無茶苦茶だけれど、一小節に収まる量が全てきっちり揃っているあたり、彼は天才なのだと思う。
日が傾き、点と線の世界に目が疲れてきたところで私は大きく伸びをした。あとは明日やろうと片付けていると、賑やかな声が眼下から聞こえる。鞄に道具を詰めて、何気なく校庭を見下ろせば、丁度帰ろうとしているアドニスくんの姿が見えた。見れば靴は上履きだ。これから下駄箱へ戻るのだろうか。
いまなら「またあした」が言えると、ふと思いついたその頃には私はもう駆けだしていた。階段を下りる頃合いで、なんでこんなに急いでいるのだろう、だとか、別にわざわざ走って挨拶なんて、と冷静な私が心の中で首を傾げる。だけどそれらを蹴散らして、染みついたなにかが走れ走れと大声で囃し立てる。
下駄箱にたどり着けば、丁度アドニスくんが靴を履き替えているところだった。駆け下りてきた私を彼は目を丸く見つめて「どうした」と駆け寄る。細く切れる息を整えて彼を見上げれば、夕焼け越しに、アドニスくんの優しい顔が見えた。決して触れることはないけれど、体温を感じるほど彼の顔が近い。大きく心臓が跳ねる。忙しなく目を瞬かせれば、ひと雫、汗が顔の輪郭を伝う。
彼の瞳に落ちる自分の姿を眺めながら、私は一歩後ずさって「なんでもないよ」と笑った。怪訝そうに眉を寄せる彼に「また明日ね」と突っぱねるように言えば、彼は暫くこちらを見た後で「ああ、また明日」と、そう言って踵を返し歩き去って行く。
遠くなる後ろ姿を見送りながら、私は蹌踉けるように覚束なく足を動かした。背中に下駄箱の側面がぶつかる。そのまま下駄箱に体重をかけて、長く長く、息を吐き出す。騒がしい心臓の音を聞きながら、俯き、先ほどのアドニスくんの顔を思い出す。
ああ、認めなくなかったけれど、私は。
身体の奥の方から、熱がこみ上げてくる。鼻につんと刺さるその熱は視界を歪めて、ぽとりと、床に斑点を作る。ぽとぽとぽとと、不規則に落ちるそれに鼻をぐずりと鳴らせば――頭になにか、布が降ってきた。
「はい、こっちこっちー」
布の向こうから間延びした声が聞こえた。眼前は厚い布で覆われてなにも見えない。驚き声を上げる私に、声の主は「そんなとこで泣いてたらわるうい男の人に攫われちゃうよ」とひょうきんに言ってのけた。布から香水だろうか、清涼な香りが届く。ほんの少しだけしょっぱいその香りに「羽風先輩?」と尋ねれば、声の主は厚い布(どうやらブレザーらしい)をちらりと捲って、笑った。
「うん、とりあえず静かなとこ行く? 部室、今誰もいないと思うし」
ぼたぼたと涙を流す私には拒否権などなく、黙って頷けば、彼は私の手を取って階段に足をかけた。