嘘つきは誰だ_10
小テストは、隣の人と交換して採点するのが決まりだった。先生の解答を聞きながらアドニス君の答案に丸をつけつつ「なんでこんなに当たるの?」と尋ねたら「テストは当てものじゃない」とアドニスくんはほんの少しだけ顔をしかめた。右上の四角い欄に『8/10』と記載して「惜しかったね」という言葉を添えて答案を返却すれば、アドニス君は私の解答用紙をしばらく見つめて「伸び代が、ある」とそれを突き返す。そのままカバンの奥底へと追いやりたい点数を見た私は、くらり、と軽いめまいを覚えた。
チャイムが鳴り授業が終了したと同時に、鳴る腹の赴くまま空腹のクラスメイトたちは教室を飛び出した。賑やかになる廊下の音を聞きながらため息を漏らせば、いつも購買へと向かうアドニスくんは珍しく椅子に座ったままこちらをじいと眺めている。私はカバンからお弁当箱の入った巾着を持ち上げて席から立ち上がる。付いてきて、とか、一緒に食べよう、とは言っていないのに、示し合わせたようにアドニス君も立ち上がり、私の後ろについて歩いた。
屋上が施錠されていないことを、私はなんとなく知っていた。思い出していた、という方が正しいのだろうか。人の気配のない扉を開ければ、開放感に満ち溢れた景色が眼下に広がる。まだ暖かい季節は人がたくさんいるのだろうが、室内でも凍える季節だからか見る限り人はいなかった。洗剤のCMのようにたなびく白いシーツを抜けて段差に腰を下せば、ずっと後ろに付いて歩いていたアドニス君も当たり前のように隣に腰を下ろした。
「アドニスくん、誰にもまだ話してない朗報だよ、聞く?」
「ああ」
「多分ね、なんとなく記憶を取り戻してるきがする」
巾着からお弁当箱を取り出し膝の上に並べる。お箸箱を滑らせてお箸を取り出し、両手に挟んで手を合わせれば、アドニスくんも同じようにあんぱんを前に手をあわせる。
弁当箱を開く私にアドニス君は「朗報にしては元気がないな」と一口、あんぱんをかじった。お箸でプチトマトをつまみ上げた私は「そりゃあね」とトマトを口の中に放りこむ。ツルツルした表面を歯で押しつぶせば、小さな破裂音とともにトマトが口いっぱいに飛び散った。
「全部思い出したら、私、変わっちゃうのかな。昔持ってた気持ちとか蘇ったら、今の気持ちは消えちゃうのかな」
アドニスくんは返事をしない。代わりに袋を持ち直す、がさり、がさりとした音だけが空しく響く。
「好きだった気持ちとか、消えちゃうのかな」
「……羽風先輩か」
今度は私が押し黙ってしまった。綺麗な小判形に整えられたハンバーグをお箸で切り分けて口に入れれば、アドニス君はこちらをちらりと見るだけで、返事の催促もせずにかれもまたあんぱんをかじった。
嘘みたいな青空が目の前に広がっている。遠くの方で海がきらめくのが見える。風が吹くたびにほんのりと潮の香りがして、途端に先輩のことを思い出す。笑顔とか、少し困った顔だとか、拗ねたような顔だとか。フィルムのように流れる先輩の顔がちらつくたびに、ちくりと心が揺れる。
ハンバーグを飲み込んでぽつりと「私、羽風先輩のこと、好きだったんだよ」と呟けば「今も好きなのだろう」とアドニスくんが間髪入れずに答える。答えることに躊躇してしまったが「好きだよ」と言葉を絞り出せばアドニスくんはまたビニールの袋を鳴らした。
「お前は、お前を信じてやればいい」
「どっちの?」
「今の自分の気持ちが、正しい気持ちだろう?」
そう言うともう空になった袋をビニール袋の中に入れて、代わりに新しいあんぱんを取り出した。どうやら今日はあんぱんの割合が多いようだ。まだ膨らんでいるビニール袋に、残りもあんぱんなのだろうか、と眺めていたら、アドニスくんがふと、自分の食べているそれを見つめ、そしてもう一口頬張った。私も自分のお弁当と向き合い、一口白米を口に含む。咀嚼しながら、アドニスくんの言葉を噛み締める。
今の自分の気持ちを信じたとしても、おそらくそれはもう遅い。連絡のこない携帯のことを思い出して、箸を止める。あの日、一緒に帰ったあの日に『恋人』なんて単語を出したのが間違いだったのだろうか。
「多分嫌われちゃったから」
「羽風先輩に?勘違いだろう」
「勘違いじゃないよ、ていうか、私たち付き合ってなかったの」
「それは知っている」
「そうなの?」
「おそらく先輩はお前を守るために嘘を付いた」
こちらを向いたアドニスくんは、いつもにも増して真剣な表情を浮かべていた。「守る」と彼の言葉を繰り返す私に彼は力強く頷いて「お前の支えになろうとしたんだ」と食べていたパンを膝に置く。そして両手も膝の上に置いて、一音一音間違えないように「おそらく今も、その気持ちは消えてはいない」と真っ直ぐに私の瞳を射る。
支え、と聞いて思い当たる節がたくさん、脳裏に浮かぶ。そうなのか、そういうことだったのか。入院生活の時に毎日顔を出してくれてたのも、わざわざ二年の教室まできて帰るのを待ってくれてたのも、他愛のない話でもなんでも聞いてくれたことも全部、彼の行動は紛れもなく私の支えになっていた。
言葉を失う私にアドニスくんは柔らかく表情を崩して頷いた。そして膝上においていたパンを持ち上げて半分に割る。口の付いていない方のパンを差し出して、アドニスくんは力強く頷いた。
「食って、元気を出して羽風先輩と話してこい。俺はお前を応援する」
素直に受け取ればアドニス君は微笑んで、余っていた半分のあんぱんを口にした。私も彼に倣ってあんぱんに齧り付く。
一等に甘く感じたその味を、私は当分、忘れることはないだろう。