嘘つきは誰だ_08

 知っていること。毎日学校には来ない。あまり真面目ではない。 ほんのり潮風の匂いがする。笑顔が素敵。実は努力家。本当は真面目。後輩を大切に思っている。そして、何かを隠している。

 夕日がゆったりと教室を照らす。紅の光が指先に光る小さな針までしっかりと色を染めていく。てらてらとした布地に溶けるように、紅色が淡く灯っていた。夕日の届かない場所まで持ち上げてみれば、布本来の白地が顔を出す。ゆっくりとおろせば、まるで色水に浸かるように、衣装はまた紅色に染まっていく。

 不思議なことで、例えば文字を書いたり、携帯電話を操作したり、こういう針仕事たちは、初めは手こずったものの、思いの外すぐに思い出せた。指が覚えているというのは、こういうことなのだろうか。すいすいと針をくぐらせてゆっくり針を引っ張ると、ぴんと伸びた糸は布地を軽く引っ張り上げる。その上に走るように光が滑る。穏やかな夕暮れだ。今日はアドニスくんも晃牙くんもいない。いるのはただ一人だけ。

 羽風先輩は前の席に横向きで座り、私の机の端で頬杖をつきながら雑誌を捲っていた。楽しいも、退屈も表情に浮かべず、ただ淡々とページを捲っている。夕日が煌々と彼の背中を紅に染めている。橙色から金色へ、綺麗なグラデーションを奏でている髪の毛は、彼があくびをするたびに不規則に揺れた。毛先からちらちらと落ちる星屑のような光が眩しい。

「昨日ね」

 穏やかな空気に乗せるように、優しく羽風先輩が口火を切る。目線は相変わらず雑誌に落ち、ぱらりとページをめくる音が聞こえた。私も糸をまた布にくぐらせながら「はい」と言葉を返す。開け放たれた窓から、冬の風が流れ込む。頬をくすぐるそれは、冷たいけれど、嫌な気分にはならなかった。

「駅前のカフェに寄ったんだけど、もうクリスマスのフェアがやってたよ」
「そんな季節なんですね」

 頭を出した針をつまみ布から引き抜いて、もう短くなった糸の先を針に巻きつけた。幾重にも巻いたそれを指で抑えながらゆっくりと引き抜けば、生まれたての綺麗な小さい玉が布の端にちょこんと鎮座する。いくつかまた布地に糸を通し、余った部分を糸切りばさみで挟めば、ぱつん、と小気味の良い音とともに布と針が切り離される。その音につられるように羽風先輩は顔を上げて微笑んだ。

「この季節だからかカップルが多かったよ、男二人だからすっごく気まずかった」
「確かに目立ちそうですね」
「まあ奏汰くんは気にしてないみたいだったけど……ああ、えっと」
「深海先輩ですよね、流星隊の」

 私の言葉に羽風先輩は「よく覚えてたね」とはにかんだ。それはもう、受験生も真っ青なほどに頭に叩き込みましたから。今では氏名やユニットはおろか、皆さんのここ一年のライブ情報だって、概ね暗記してありますとも。……なんて馬鹿正直に言ったらきっと羽風先輩に呆れられるだろうから(現にアドニスくんに話したら「無理をしすぎだ」と怒られてしまった)惚けたように「まだ顔は曖昧ですけど」と笑えば「今度連れてくるよ」と羽風先輩は頬杖を解いた。そして雑誌を閉じて自分のカバンに入れると、体をこちらに向けて両腕を組んで机に肘をつく。微笑みを湛えた先輩は縫い終わった衣装の端を掴み持ち上げて「仕事なんて、少しは休んでいいんだよ」と目を伏せた。長い睫毛ひとつひとつにも夕日は落ちて、きらきらと揺れる。「結構休みましたよ、入院してたし」と針を片付けながら言えば、先輩は浮かべていた笑顔を沈めて「だめだよ」と小さく、まるで独り言のように呟いた。

「無理するのはダメ、約束、ね?」

 先ほどまで穏やかに流れていた空気が、少しずつ冷えていく。つまんでいた指先に力がこもり、先輩の握りこぶしの中へ衣装が巻き込まれる。伏せていた目を開いて先輩は真っ直ぐにこちらを見つめた。灰色の瞳が、夕日に光り淡く黄色に光る。

「先輩の目の色、光ってる」

 重苦しい雰囲気に耐えかねてそんなことを口に出せば、冷えた空気が途端に弛み、先輩は深々とため息を吐いて「あーはいはい、そうだね」と気の無い言葉を返した。衣装から手を放してそのまま伝うように私の指先を握れば「無理する前にちゃんと俺を頼ってね」と諦めたように言葉を吐き出す。笑って「ちゃんと頼りますよ」と言えば、疑念の視線を一度向けてーー諦めたように苦笑を浮かべた。

「だって」

 だって彼氏なんでしょう、と言おうとした。軽い言葉のつもりで続けようとしたその言葉は、どうしても胸をつっかえて出てこなかった。どうにか絞り出した「羽風先輩、心配性ですからね」と言葉を吐けば先輩は呆れたように「君相手なら誰でも心配性になるとおもうけど?」と唇をとがらせる。そして立ち上がって大きく伸びをした先輩は「そろそろ帰ろっか」と微笑んだ。裁縫箱の蓋を閉めて机の中に片付けた私は頷いて同じように立ち上がった。カバンを持ち上げれば先輩が手を差し出す。迷いなくその手を取れば、羽風先輩は幸せそうに微笑みながら一歩、踏み出した。

「どこまで話したっけ」
「深海先輩とカフェに行って、カップルの中気まずいなあってとこまでです」
「そうそう、それでねさっさと出ようと思ったんだけど奏汰くんが思いの外食べたがりでね」
「そうなんですか?」
「軽いケーキとかだと思ったらご飯物注文してさ、なんだかんだで二時間近くカフェにいてさ」
「楽しそうですね」
「……まあ楽しかったけど、やっぱり行くなら女の子とがいいよ」
「今度一緒に行きますか?」

 玄関から一歩外に出れば、空はゆっくりと、確かに夜に飲まれていた。強く瞬く星はオリオン座だと、この前羽風先輩が話していたのを思い出す。橙と紺色が混ざり合う不思議な空の色を見上げながら「行こうよ」と言葉を弾ませる先輩の声に耳をそばだてる。そのカフェはどんな外観かわからないけれど、きっと二人でいけばカップルに見えるのだろう。そう思うと何故だか急に悲しくなった。

「恋人同士、ですもんね」

 冷やされた風に攫われた言葉は、空中に舞って消えていく。
 吹き荒ぶ風から身を守るのに夢中で、私の言葉に表情を強張らせる羽風先輩に、気付きもしなかった。

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