嘘つきは誰だ_07
よく晴れた日だった。木々はは鮮やかに彩りを深め、役目を終えた葉を散らす。風が吹くたびにからから乾いた音をたてて落ち葉が転がるので、なんとなしにその行方を追いかければ、手入れが整った庭園に出た。さすが私立と歩いていると、日陰からホースで水を遣る見覚えのある青年が視界の端に現れる。彼は私の姿を見るなり穏やかに手を振った。振るだけならいいもののホースも軽く揺られてしまい、冷たいしぶきがぴちぴちと私の肌にぶつかり弾ける。雫をぬぐいながらそちらを見れば、朔間先輩は私とホースを交互に見て、そして照れ笑いを浮かべた。ホースを下ろして手招きする彼の元へ行くか少し迷ったけれど、特に予定もなかったので、私は垣根の隙間を通り抜けて先輩の元へと向かった。
登校にも慣れてようやく顔と名前が一致してきたけれど、羽風先輩は未だに『恋人』のままだった。疑念は拭えないけれど、意地悪をしてくるわけではないからどうにも切り出し辛い。他の人に聞いてみようとは思ったけれど、確信に変わるのもまだ怖くて聞けず終いでいる。しかし、数日おきに鳴り響く「元気?」の連絡や、迎えに来てくれる彼の無邪気な笑顔を見るたびに、良心がぎりぎりと痛む。
下ろされたホースから飛び出す水が、地面に小さな川を作る。排水溝へと至るそれを飛び越えて彼の隣へと立てば、背後に雄々しく佇む大樹が風に揺られて木漏れ日を揺らした。網目状になった光は、地面と、私と、先輩に惜しげもなく降り注ぐ。
「日光がダメって聞きました」
「今日は嬢ちゃんが来ると思って頑張って待っておったんじゃよ」
先輩は嘘か本当か判別つかない笑みを浮かべて、ホースを持ち上げた。親指で抑えられた口から、扇状に水が飛び出る。光が水の上を滑り、きらきらと輝く。「よく世話をしているんですか」と聞いてみれば先輩は笑って「たまに、な」とホースを揺らした。
「嬢ちゃん、我輩になにか聞きたいことがあるんじゃろう」
「……なにか」
「答えられる範囲で答えてやろう」
暗に、羽風先輩のことを言われている気がする。ぱたぱたと落ちる水の音を聞きながら、羽風先輩のことを頭に思い浮かべる。
ここでもし『恋人』でないと言われれば、私はこれから彼とどう接すればいいのだろうか。ここが普通の学校なら、接しなければいいだけの話だろうが、そうではないことは身を以て理解した。好きな人、嫌いな人、苦手な人、よくしてくれる人。みんな平等に、同じだけ、そして私のできる限り最大限バックアップするのが、おそらくこの学院における私の役目だ。手帳の端に書いてあった「誰かを贔屓しない」という走り書きは、きっと『私』の決意だったのだろう。
暴くのが正しいのだろうか。それとも嘘と知っておきながら、黙って信じているのが正しいのだろうか。閉口する私に朔間先輩はホースを下げて「悩んでおるのう」ととても楽しそうに笑った。意地の悪い人だと睨めば、彼はホースを持っていない方の手で、大きく私の頭を撫でた。
「意地悪が過ぎたか」
「……先輩は、記憶なくなったこと、あります?」
私の言葉に先輩は唖然とした表情を浮かべ、そして笑みを取り繕い「難しい質問じゃのう」と言葉を詰まらせた。慌てて「すいませんちょっとやり直しますね」と首を振るうと先輩は安心したように表情を和らげ「じゃあ待っておるよ」と水やりを再開した。
先輩が指先をほんの少し空へと向ければ、水が綺麗な弧を描いて花々に落ちる。薄ら見える虹色に「虹だ」と呟けば先輩はそれを探すように視線を彷徨わせ、どうやら見当たらなかったらしく肩を竦めた。おどけてくれる先輩の優しさがくすぐったくて、私は大樹に体重を預けた。それを見て先輩も、一歩下がり木に背中を預ける。二人よりそってもビクともしない大樹は、揺れる風に合わせて木漏れ日を揺らす。
「……わからないんです、いろいろと。記憶がなくなったり、知らない人が家族だったり、知らない場所が自宅だったり……知らない人が友達だったり。みんな嘘みたいに親切で、優しくて……」
「優しいことに不満か?」
「そうですね……普通は、みんながみんな優しいなんて、ないじゃないですか」
「まあプロデューサーと仲良くして損はないからの。酷な話じゃが、なくなった記憶をチャンスと思って近付いてくる輩もいるじゃろう」
彼から貼り付けた笑顔が消えた。水の行方をまっすぐ見ながら口を真一文字に締める。端正な横顔を見つめながら「チャンス」と言葉を繰り返せば、先輩は身を起こすとホースを私に手渡して大樹のそばにある水道へと寄った。どうやら水はそこから出ていたらしく、元を締めればホースは嘶くように首を震わせて、そしてぼたぼたと余った水を落とした。先輩はホースをまとめながらこちらへとゆっくり歩んでくる。
「信じていい人、信じてはいけない人、嬢ちゃんは見極めて付き合わねばならん……まあしばらくはうちの優秀な番犬が良からぬ輩を追い返してくれると思うが」
先輩が手を差し出すのでホースの先を渡せば、彼はそれを受け取り巻き取って腕を通した。ぽたぽたとまだ落ちる雫は足元を濡らし、地面に斑点をつける。それを眺めながらぼそりと「羽風先輩は」と心に浮かんだ言葉を出す。続けようと口を開けば、言葉よりも先に大粒の涙がぽろりと、地面に落ちた。ついでふたつ、みっつ。地面に斑点が浮かぶ。ホースなのか、私の涙なのか、もうわからない。
「羽風先輩も、そうなのでしょうか」
俯く私の視界の端で、先輩の革靴が動いた。動く気配がしたと思えば先輩は座り込んでじいと涙に濡れた私の顔を見て、笑った。
「嬢ちゃんの聞きたかったことはそこじゃな」
手招きをするので私がその場にしゃがみこめば、彼が力任せに肩を抱いた。重心が揺れ尻餅をついてしまう私に先輩は笑い、彼もお尻を地面につけて足を延ばす。冬の空気で冷やされた地面はスカート越しても冷たい、し、おそらく汚れていることだろう。先輩も同じだっていうのに彼はただただ嬉しそうに笑い「身内の甘さかもしれんが」と肩に回していた手を下ろす。私も両足を投げ出して先輩と同じように地面に両手を着けば、存外に優しい土の感触がした。
「薫くんは嘘をついておるよ。じゃが、嬢ちゃんに優しくしているのは『本当』の気持ちからじゃ」
「信じてもいいんですか?」
「信じたいのなら信じておくれ。大丈夫じゃよ、薫くんはちょっとズルを使ったかもしれんが、嬢ちゃんを陥れようだとかそういうことを考えるような輩ではないよ」
ふと、目を覚ました時の記憶が蘇る。初めから優しくしてくれた先輩。毎日会いに来てくれた先輩。連絡をくれたり、一緒に帰ってくれたり、一番気遣ってくれた先輩。
「朔間先輩」
「なんじゃ」
「私、多分、羽風先輩のこと、好きかもしれないです」
ぐずりと鼻を鳴らす私に、先輩は笑いながら軽く頭を叩いた。
「知っておったよ、ずーっと前から、な」