嘘つきは誰だ_03
面白かったよ、と彼は本を返しながらそう言った。秋晴れと言っても過言でないほどからっと晴れた日で、空には薄く雲が流れていた。一時帰宅が許されたことを話そうと思っていたから、少しだけ出鼻をくじかれた気持ちもあったけれど、嬉しそうな彼の笑顔を見るとそんな気持ちはどこかへ飛んで行ってしまった。「晴れてるから、外に出ようか」
羽風さんが手を差し出すので私は素直に彼の手のひらに自分のそれを重ねた。
彼にエスコートされ向かった中庭は、病院の影のある空気とは違い、穏やかな空気が満ち溢れていた。花壇に沿うように備え付けられたベンチに二人並んで座る。青空の色で染め上げたような真っ青なブレザーを纏った羽風さんはポケットから小さなチョコレートを取り出すと、「内緒ね」と囁きそれを私に握らせる。くしゃり、と手のひらの中でビニールが擦れる音がして小さく笑うと、羽風さんもクスクスと笑い声を零した。
冬へと向かう風は病衣では寒く、私は『母』から借り受けたストールを羽織っていた。せっけんのような馴染みの深い香りのするそれは、風が吹くたびにぱたぱたと揺れ泳ぐ。両肩を抱くようにストールを中へと引っ張れば「それだけじゃ寒いでしょ」と羽風さんはブレザーを脱いで私の肩にかけてくれた。まだ暖かいそれにお礼を言おうと顔を上げれば、セーターなど何もきていない、シャツ姿の彼が私の瞳に映る。あまりの寒々しい姿に慌ててブレザーを返そうと手をかけるが、制するように彼は私の手に自分の手をかさねて「いいから」と一言。せめても、と肩に巻いていたストールを引っ張り出し羽風さんの肩にかければ、彼は不思議そうにストールを見て、そして照れ恥ずかしそうに笑った。
「似合う?」
「似合いますよ」
「そっか、ならしばらく交換していよっか」
羽風さんはそう言うと肩に身を寄せる。こちらに体重を乗せるでもなく、ただ寄り添うだけのその距離が心地よくて、私もほんの少し彼に寄れば「寄りかかっていいよ」と優しい声が降り注ぐ。言葉に甘えて彼の腕に体重をかければ、本当にごく自然に彼の腕が私の肩に回った。触れる指先に嫌な感情は産まれない。本当に恋人だったのだろうかと思い羽風さんを見上げれば、グレーの瞳がゆっくりと瞬いて「まだ寒い?」と尋ねてくる。首を横に振るって目を閉じれば、冬の風と『母』の香りが混じり合わさって私に届く。
やってくる『友達』に、羽風さんとの関係を聞く勇気はなかった。初日に「恋人だよ」と言い放った彼に対して他の三人は否定をしなかったことを考えると、やはり恋人なのだろうか。でも彼らが肯定しなかったのも事実であり、でも確かめる勇気もなく……。
でも、だけど、ううん。羽風さんのことを考えると概ねそのサイクルに飲まれてしまう。考えても考えても答えは出ないから、ただただ彼の優しさを甘受する。恋人かどうかはさておくとして「甘えてもいいよ」の一言は多分きっと本当に違いないと信じていたかった。
「あの、私は、羽風さんのことはなんて呼んでたんですか?」
「羽風先輩って呼んでたよ」
「羽風先輩……」
転がしても馴染みがなくて、でもいつもの癖で「なんとなく懐かしい気がします」といえば羽風さんは「嘘ばっかり」と笑った。そんなわかりやすかっただろうか、と思いながらも「よくわかりましたね」と言えば、羽風さんは少し寂しそうに「君は嘘ばっかりだったから」と肩を抱く指先に力を込めた。
「嫌な子でした?」
「嫌な子じゃないけど、心配になるような子だったよ」
「嘘をつきすぎて?」
「うーん、そう言うと語弊があるけどね。頑張り屋だったよ、無理なことも大丈夫だって言って……」
羽風さんはそこで言葉を切った。肩に触れている彼の大きな手は、添えるというよりももはや握るに近い力が籠っており「羽風さん?」と問いかければまるで糸が切れるようにふっと力が抜けた。慌てて彼は笑顔を繕い「ごめんねなんでもないよ」と笑い、幾度か肩を撫でる。
どうやら私はよく無理をするような子だったらしい。いまいちピンとこない情報を頭の中でめぐらせていると、羽風さんはううん、と言葉を漏らして、今度は優しく引き寄せるように、肩に添えた手に力を入れた。
「……あ、そうです、私一時帰宅できるそうですよ」
「本当?」
「本当です!それで、そのまま問題なければ退院で、学校に通ってもいいって」
「そっか、よかったね」
「なんですけど、その、家のこと全く覚えてなくて……」
「不安?」
見透かされたような言葉に俯いて手の中にあるチョコレートの包みを触る。透明なフィルムに包まれたそれは空の色を反射しながら水色に光る。ぱりぱりと鳴る音に耳をすませながら「ほんの少し」と小さく呟けばあやすように先輩が肩を穏やかなリズムで叩いてくれた。
一時帰宅を告げられた時の『母』の表情が、頭の中に蘇る。喜色を滲ませて「よかったね」と笑う言葉にきっと裏はない。医者も電子カルテになにやら書き込みながら「ゆっくりしてきてください」と穏やかな笑みを浮かべていた。
私だけだ。その言葉に不安を覚えたのは。ようやく大部屋に馴染んできて、落ち着けるようになったと思った矢先に、知らない『家』に帰らなければいけない。思い出そうにも和風なのか洋風なのかそんな大雑把な外観すら思い出せなかった。
そんなことを言えるはずもなく、震える唇をキュッと一度強く結んで「楽しみだね」と『母』に微笑みかければ、彼女は顔いっぱいに喜びを浮かべながら「ごちそう作らなきゃね」と声を弾ませていた。
そっと羽風さんに寄れば「携帯持ってる?」と彼が尋ねてきた。そういえば気にしたことなかった、と思い目を瞬かせれば彼は笑って「携帯に俺の連絡先入ってるから、いつでも連絡してきて」と耳元に口を寄せて、囁くようにそう言った。ふわりと爽やかでどこかせつない、とても懐かしい香りが鼻先をかすめた。これは多分ストールではない。羽風さんの香りだ。
最近飽くほど吐き出した「知っている気がする」なんて言葉が浮かんだけれど、口には出さず、私は喉奥でその言葉を押し返した。胸を締め付けるほど甘いその香りは、そんな安い言葉で表現してはいけない気がして、胸いっぱい吸い込むように私は羽風さんにもう一度すり寄った。