嘘つきは誰だ_02
白い天井は今日も代わり映えはしない。クリーム色のカーテンの奥からはお隣さんの息遣いが聞こえる。病院の午後はとても穏やかで、それでいて退屈だ。
あれから十数日経ち、小部屋から大部屋へと移されたり、体の隅々まで調べられたりといろんなことが起こったけど、眼が覚める以前の記憶は相変わらずぽっかりと抜けていた。それでいて言語能力は異常はなかったり、知識も概ね年相応は備わっていたりするから人間の体というものは不思議なものである。
『家族』は定期的に私を訪ねてきてくれて、家から『私のお気に入り』の本や雑誌などを持ってきてくれた。大概それは記憶にないけれど、ページを捲ってみればなんとなく見たことのあるようなページが見つかるから不思議だ。不意に胸中に訪れる懐かしい気持ちは、私が目覚める前にも生きていた証のようで嬉しいけれど、どこか遠い感情のようにも思えた。
あのとき、病室にいた四人組も足繁く病院に通ってくれた。
外国人の男の子ーーアドニスくん、というらしいーーはどうやら同じクラスのようで、三日に一回は授業のノートを持って病室に遊びに来てくれた。授業に関して、はじめは知らない事柄が多く面食らってしまったが、彼に教えられつつノートを追っていけばゆっくりではあるが理解できるようになった。難問が解けるたび、何かを新しく覚えるたび、「これならテストも大丈夫そうだな」とアドニスくんは柔らかく表情を崩す。当初は仏頂面が怖いと思っていたが、笑顔は存外優しい。
銀髪の男の子ーー晃牙くんというらしいーーはたまに黒髪の青年ーーこちらは朔間さんというらしいーーを引き連れたり、双子の後輩を引き連れて騒々しく病室へやってきた。彼はアドニスくんのように勉強を教えてくれることはないが「寝てばかりいると身体が鈍るぞ」と言って晴れている日はよく外へと連れ出してくれる。どうやら朔間さんは日光が苦手らしく、病衣を纏っている私よりも覚束ない足取りでぽてぽてとこちらを追いかける姿は、正直どちらが弱っているかわからないほどだ。一方で双子を引き連れている日は素早く駆ける二人の影を晃牙くんが追いかけて取り残されることもしばしば。しかしながらただ体力の回復に努めるだけの毎日に彼らが彩りを差してくれるのは間違いないことであり、とても感謝をしている。
そして、自称彼氏である羽風さんに関しては毎日、どんなに短い時間でも必ず一日に一回は顔を出してくれた。
その日、私は『お気に入りの本』らしい文庫本をぱらぱらとめくっていた。あいにくの雨で、窓の向こうからは断続的に雨音が聞こえている。どうやら同室の誰かの友達がきたのか、嬉しそうに跳ねる声が聞こえて、一瞬病室の空気が華やいだ。嬉しそうに跳ねる声はしばらく病室に響き、そして少しの物音を挟んで次第に遠のいていく。どうやら場所を変えたらしい。また静まり返った病室には、穏やかな雨の音で満たされる。
読んだことあるようなないようなその本をめくりながら、私は昔の自分に想いを馳せた。
自分の名前らしい単語を聞いてもどうにもしっくりこない。顔もまだ見慣れないし、相も変わらず家族の顔も思い出せないけれど、思ったままの表情を顔に出すと悲しまれることはなんとなくわかったから、笑顔を取り繕う癖がついたように思う。アドニスくん達から教えてもらった情報を「ぼんやりだけど思い出してきたよ」と披露すれば『家族』は喜んでくれるので、微妙な空気になればそれを披露する技も覚えた。
記憶がないということは、縋るもののない状態で水に流されている状況に似ている。溺れないように必死に足掻くし、一瞬たりとも気がひけない。常に付きまとう不安と、自分は何者であるか分からない気味の悪さを抱えて流れに逆らわないように必死に流れていく。だからこそ、アドニスくんと勉強をしている時間や、晃牙くんがどたばたに連れ出してくれる時間は、私は『私』のことを忘れることができて、とても心安らぐのだ。
一人になるといろいろなことを考えてしまう。『好き』な本だって、いくら読んでも『私』の影がちらついて、どうにも文字が滑り内容が入ってこない。
不意にドックイアを見つけてそのページを読み込んでみるものの、心が動く何かがあるわけでもない。これは印につけたのだろうか。それともうっかり挟んでしまったのだろうか。曲がっているページを伸ばし指先でこすっていると、不意に名前を呼ばれた。少しだけ馴染んできたその響きに顔を上げれば、羽風さんが微笑みながらゆるくこちらに手を振っていた。
「読書中?邪魔しちゃったかな」
「大丈夫ですよ、丁度区切りがいいところだったので」
「そうなの?何読んでたか見ていい?」
本を手渡せば彼はベッドに寄った。あまり物が入っていないらしいカバンは、ことん、と小さな音だけ立てて床に着地する。羽風さんはつま先を丸椅子の輪っかに乗せて座ると、手渡された本の表紙を凝視した。「面白い?」と聞いてくるので「わからないですけど、好きだったそうです」と私は答える。羽風さんはふうん、とつぶやくとぱらぱらとページを捲った。「有名なんですか?」と私。「うーんわからないな、ごめんね」とページを眺めながら、羽風さん。
ぽつぽつと穏やかな雨のような会話が生まれる。
ふと、この本を渡された時を思い出す。隠そうとして、でも隠しきれない期待に満ちた光に押し負けて「なんだか見たことある本」と口を滑らせれば『母』はとても嬉しそうに微笑んでくれた。あの人が悪いわけではない。嘘を滑らせた私もきっと悪くはない。しかし嫌な音を立てて回り始めた歯車は今もまだ動いていて、彼女がこの本を話題に出すたびに「このシーンが好きだった気がする」と私は嘘の上塗りを重ねてしまう。
でもさっきは違ったな。読んでもいないはずなのに彼の長い指は一定の速度でページをめくる。耳を澄まさないと逃してしまいそうなほど細やかな紙の音が、かすかに耳に届く。多分きっと、彼がそういう期待を寄せていないからだろう。ぺらり。またページがめくられる。最初からそうだ、彼だけはそういう目で私を見ていなかった。
アドニスくんも、晃牙くんも、双子の葵くんたちも(朔間さんはちょっとわからないけれど)私越しに昔の『私』を見ている。それは視線だったりだとか言葉の端々だったりだとか、些細なところにふと現れて、今の私を戸惑わせる。「早く記憶が戻るといいな」だとか「ゆっくり思い出せばいいんだよ」だとか、彼らなりの激励な言葉がああ思い出さなきゃいけないんだ、と焦燥を掻き立てる。もちろん忘れたままがいいというわけではない。でも、やはりどうも、気持ちの整理が追いつかない箇所というものは存在する。
その点この人は、羽風さんはそういうものを一切感じさせなかった。興味がないのだろうかと思うくらい、そういった言葉を発しなかった。
いや、一度だけ。一度だけ彼が「記憶がないって不安?」と聞いてきたことがある。「不安ですよ」と返せば彼は少し悩んで「なら不安な分俺に頼っていいからね」と返してくれたのだ。早く戻るといいね、だとか、戻るために手伝うよ、だとか、そういう言葉が返ってくると思っていたーーし、実際そういう言葉をかけられることも多かったーーので、彼の少しだけずれた新鮮な回答は私の心を随分と軽くしてくれた。もしも記憶が戻らなくても、この人なら受け入れてくれるんじゃないのかな、なんてそんな勝手な期待も芽吹くくらいに。
ページが最後まで捲られて、羽風さんは丁寧に本を閉じた。「面白かったですか?」と尋ねれば「速読は得意じゃないんだよね」と彼は本を突き返す。少しだけ日に焼けた、薄いオレンジ色のページの束を撫でながら「貸しましょうか?」と尋ねれば「借りようかな」と彼はまた手を差し出す。素直に本をその手に乗せれば、羽風さんは大切そうにカバンにそれを仕舞った。そして携帯の時計を見て「もうこんな時間か」と立ち上がる。かたりと椅子が震える。どうやら用事があるらしい。
「面白かったら教えるね」
「楽しみにしてます」
気忙しくカバンを持ち上げると彼は一度私の頭を撫でて「また明日」と微笑んだ。「また明日」と返せば彼は満足そうに笑んでそのままカーテンの向こうへと消える。時間にしてほんの数十分。毎日来てと強要した覚えはないけれど、この邂逅を心待ちにしている私がいる。
空白の頭に彼との記憶を刻み付けて、私はベッドに寝転んだ。ぽつぽつとまた大きくなる雨音に耳をそばだてながら、明日もまた来てくれるのかな、とぼんやりと天井を見上げた。