あしたのはなしをしよう。_10
なんとか繕い物を終わらせて、朝一に依頼者の元へ手渡しに行ったら「お昼でもよかったのに」と笑われて「もしかして寝てない?目が腫れてるけど」と心配されてしまった。目が腫れているのは別の原因で、朝一に渡しに行ったのも自分の事情だと言ってしまえば呆れられるだろうか。笑って適当に返事をして、そのまま教室へーー戻らずに、人気のない庭園の方へと足を向ける。登校したものの、どうしても授業を受ける気にはなれなかったのだ。ここなら警備の人は滅多にこないし、ついでに言えば学院の人たちだって滅多にこない。綺麗に手入れされた花々を見ながら、深々とため息を吐く。なんだかもう、動いたらだめな気がする。羽風先輩に早々にリタイアの旨を連絡した方がいいのだろうか。
曇天の空の下、とぼとぼと歩いていると垣根と垣根の隙間にちょうど人が一人分入れるくらいの隙間を見つけた。ここならばと思い身を滑らせてみると、思いの外体にフィットしたその隙間は居心地がよく、抜け出せない不思議な魅力を持っていた。しばらくここで時間を潰して、午後になったら帰ろう。今度はちゃんとカバンを回収して、倒れた理由はまた、保健室でいいかな。
遠くに聞こえるチャイムの音に耳を澄ましていたら、ぽつり、と水滴が落ちてきた。曇りだけど今日までは雨は降らないと聞いていたのに、と見上げれば、今度はまとまった水量がぼたぼたぼたと頭に降りかかった。明らかに雨ではないその水量に頭を振るうと、訝しげに私の名前を呼ぶ、慣れ親しんだ声がした。
「……何しておるのじゃ」
「……先輩?」
そこにはなぜかホースを持つ先輩が立っていて、その先からはどぼどぼと水が流れている。雨じゃなくて、これか。ズブ濡れたブレザーを脱ぐと、先輩は困ったように眉を寄せてホース片手に何処かへといってしまった。気まずいしこのまま逃げてしまおう、と立ち上がれば、どうやらホースを置いてきたらしい先輩がこちらへとやってきて、ブレザーを脱ぎこちらへと投げよこす。
「着ておけ、寒いじゃろう」
「……口調」
「どこぞで誰が聞いてるかわからんじゃろう、おいで」
先輩はそういうと垣根を追い越し奥の方へと歩き出す。そういえば花の手入れをしてると風の噂で聞いたことがあるけどまさか、ここだとは。水滴を嬉しそうに浴びる花々を見つめて、そして先輩の背中へと目線を戻す。
垣根の奥には大樹が植わっており、その根元には人が数人座れるスペースが広がっていた。先輩はそこに腰を下ろすと座れと言わんばかりに地面を叩く。おずおずとそこに腰を下ろして自分のブレザーを脱ぐ。代わりに先輩のブレザーを肩に羽織るとほんのり晃牙くんの家の香りがした。(正確にはレオンの匂いかもしれない)
「昨日は晃牙くんの家に?」
「そうじゃよ」
「……その、昨日は、すいませんでした、いや、昨日も?」
「気にしておらんよ」
「嘘!」
「気にして、おらん」
ぶすっとした表情でそういうので「本当にすいませんでした」と私はもう一度謝った。先輩は「気にしておらんと言っておるじゃろ」と乱暴に私の頭をかき撫でる。普段なら考えられない力に思わず笑いを零せば、どうやらこの行動が間違ったことだったことに気がついたらしい先輩は「晃牙は、やってただろうが」とぼそりと呟いた。
「晃牙くんは友達ですから」
「やっぱそうか……あいつ、友達できたんだな」
「できましたよ、晃牙くんいい人なんで友達たくさんいますよ」
「1年前のあいつに聞かせてやりてえなそのセリフ」
「1年前なら怒っちゃうかもしれませんねえ、春頃も一匹狼だったし」
「……ありがとな」
「へ?」
「あいつを成長させてくれて、ありがとな」
先輩はあぐらを組むと遠く先を見つめた。垣根越しに中庭が見えて、木々が見えて、曇り空が見える。でも先輩はずっとずっと遠くを見つめている気がした。それはきっと1年前の、彼にしてはすぐ最近まで見てきた景色なのだと思う。
「先輩も、すぐ追いつきますよ」
「なにがだ?」
「1年間、みんなそれなりに頑張って成長してきて、先輩も同じように成長してきたんです。でもきっとこの先ずっと生きていくなら、今の一年なんてすぐに取り戻せちゃいますよ」
「……」
「昨日言えなかったんですけど、その以前の先輩を好きじゃなくなったわけじゃなくて、それよりも今の先輩のサポートしたいなと思ったんです」
「1年後の、未来の『俺』に戻るように?」
「違いますよ、今の『先輩』が生きやすいように」
まっすぐに風景を見つめていた先輩はゆっくりとこちらに視線を移動させた。「お前は」と言いかけて彼は口をつぐみ、そして小さく笑った。
「お前も晃牙も、他の奴らも、ずっと『俺』に戻って欲しいと思ってた」
言い出しにくそうに、ゆっくりと、彼にしては消え入りそうなほど小声で。そこまで言うと先輩は苦々しく顔を歪めて口を噤んでしまった。私も以前の自分を思い出して口を閉じる。大きな大樹に腰かければ、木々はどっしりと私たちの体重を支えてくれた。さわさわと揺れる木陰を眺めながら「まあ、戻ってほしくないといえば嘘にはなりますが」と呟けば「……ここにいてもいいのか」と先輩はまたぼそりと、ひとりごちるように呟いた。
「記憶が戻れば今の『俺』はどうなるかとか、考えてもしょうもねえことばかり浮かぶし、他の奴らは見たことねえ顔で俺を見てくるし、喋り方も態度もいまいちままならねえし」
先輩がふう、と一息いれるように息を吐いた。そして「言うつもりなかったんだけどな」と呟いてまた閉口する。ああそういう風に思わせていたのか私たちは。肩に羽織っている先輩のブレザーを握れば、肩にゆるい重みと先輩の香りがした。先輩は私の肩にもたれかかりながら「今だけ貸してくれ」とだけ言い目を閉じた。
「先輩」
「なんだよ」
「晃牙くんも私も、先輩である限りずっと、先輩の味方ですよ。多分羽風先輩も、アドニスくんも、みんな」
「……そうかよ」
「先輩が今の、未来の先輩になったのも、きっと今の先輩、えっと過去の先輩がベースだからであって、ええっと、ややこしいな」
「零」
「へ?」
「零でいい、どうせ前の俺のことは苗字で呼んでたんだろ」
その提案に息を飲むと、先輩は肩から体を起こしてとても愉快そうに笑った。『朔間先輩』からたまに垣間見えていた不思議な違和感はこれだったのか。どうにもむずかゆくて小さな声で「零先輩」と呟けば彼は呆れたように「小せえ声だな」と言い、どかりと木にもたれかかった。そんなすぐ順応できるわけじゃないじゃないか。思いつつも私は言葉を続けた。
「えっと、朔間先輩がああなったのも、今のれ、零せん、ぱいがベースになったからであって、だから彼らの信頼だって、半分くらい、その、零せんぱ、いの!手柄であって!」
ドギマギしながら彼の名前を呼べば、妙に力のこもった抑揚に彼は抑えきれないように笑いをこぼした。笑うなんて失礼じゃないのかと睨みつければ先輩は目尻に浮かんだ涙を拭って、「じゃあ」と口を開く。
「俺と昔の俺だったらどっちが好きなんだよ」
「朔間先輩です」
「お前はっきり言うな」
「いやだって先輩もそうですけど出会って五日しか経ってないのと同然ですから……あ、ついでに言っておくとその、私が好きだからって無理に好意を持ったりとか、無理にそばに置いてくれたりとかはいらないので、その嫌だと思ったら遠ざけてくださいね」
「そうなのか?ここぞと恩売っときゃいいじゃねえか」
「……そうではあるんですけど、でもその相手が好きだから自分も好きになる努力をしようってなんか、違うじゃないですか。それに、れ、零先輩には好きな人と幸せになって欲しいですし……」
「そういうもんか」
「そういうものです」
それはもちろん朔間先輩もそうだけど、片思いする分には問題ないでしょ。そろりと彼を見れば零先輩はどうやら上機嫌なようで、口の端をあげて空を見つめていた。「何か見えますか」と聞けば「何も見えねえ」と、でも嬉しそうに返事を返す。
ひらりと、風に乗って薄桃色の花が散る。春のやるせない暖かさが吹き抜ける。「もうすぐ卒業なんですね」と呟けば「実感ねえなあ」と彼は笑った。「先輩的には三年間で卒業できたってことになりますね」と冗談を一つ零せば、零先輩はけらけらと笑って「確かにな」と私の頭に手を置いてゆるく優しく、撫でてくれた。
その横顔に優しさに、朔間先輩の面影を見た。いや、もしかしたら朔間先輩の優しさに、零先輩の影を見ていたのかもしれない。今になってはわからないけど、心の奥底から、ああやっぱりこの人が好きなのだと、むくむくと気持ちが湧き出てきた。
先日からゆるくなった涙腺はそういった感情でもいとも簡単に涙を許してしまう。滲む視界に先輩はゆるく笑って「泣き虫」と一言言うと撫でていた頭から手を離して、まるで初日のように首に腕を回し、引き寄せる。
「多分、私先輩のこと好きになります」
「好きになってから言えってそういうこと」
「だって好きになる頃にはきっと卒業してて、もう会えないじゃないですか」
「晃牙でもアドニスでも使って会いにこいよ、会ってやるから」
「ほんとですか?」
「ああ、本当だ」
優しい嘘かもしれない。それでもよかった。涙で濡れた顔で彼を見上げれば、零先輩は「どうしようもねえ奴」と言って、私の頭を自分の胸へと寄せてくれた。思いの外早く高鳴っている彼の鼓動を聞きながら、すん、と鼻を鳴らす。ふわりと、花の香りがした。春の別れの香りだと、私は知っていた。