あしたのはなしをしよう。_11

 先輩が戻ったことを知ったのは、次の日になってからだった。興奮した晃牙くんの話をまとめると、その晩はどうやら晃牙くんの部屋で眠って、目覚めたら元に戻っていたらしい。
 そんな馬鹿なと思い制服を着込んで学院に急行すれば、軽音楽室の棺桶の中で悠々と雑誌をめくっている先輩の姿があった。見れば他の人はいないようだ。恐る恐る「先輩」と呼べば先輩は起き上がり「おお嬢ちゃん、どうした土曜日じゃよ?忘れ物かえ?」と無邪気に笑った。

 直感だけれど、ああ、朔間先輩だと、彼は戻ったのだとわかってしまった。言葉だとか所作だとか、零先輩が必死に真似していた『繕う』雰囲気を感じさせないその懐かしい空気に心の底から安心感が湧き上がった。同時に、今まで感じたことのない心の痛みがちくり、とまるで針を指先に刺したような微々たる痛みが私を襲う。それはきっと昨日見た零先輩の横顔に違いないと、私は思った。
 そろそろと彼に歩み寄れば、先輩は申し訳なさそうに「嬢ちゃんにも迷惑を駆けたようで」と呟いた。私は首を横に振るって棺桶の前で立ち止まった。

「体調は、大丈夫ですか?」
「元気元気、一応暗くなってから病院には行くつもりじゃが、どこには異常はないよ」
「そう、よかった」

 それだけを聞きに来たんです、と余計なことを言う前に立ち去ろうと踵を返せば、朔間先輩は手首を握り「こちらへ来ておすわり」と言った。振り返れば紅の瞳が捉えるようにこちらを見つめている。震える声で「……床ですか?」と尋ねてみれば、彼は狭い棺桶の中で器用にあぐらをかいて膝を叩き「我輩のお膝の上があいておるよ」と笑った。笑っているのに、有無を言わせないその眼光に私は上履きを脱いで棺桶に上がる。出来るだけ負荷がかからないように彼のあぐらのちょうど空いている部分に座りこめば、先輩は不満そうに「ちょっと違うのう」と言い軽々と私を持ち上げて膝の上に座らせた。
 怪力とは聞いていたけど、座った状態で人一人持ち上げれるの?先輩を見ればなんてことないように彼は笑い、ぬいぐるみを抱きしめるようにぎゅっと私を抱きしめた。

「嬢ちゃんが奔走してくれたと聞いて、せめてものお礼じゃよ」
「いや勝手にテンパってただけで、晃牙くんとか他のみんなの方が多分先輩のためにいろいろしてくれましたよ」
「でもご飯を差し入れてくれてたのは嬢ちゃんじゃろ?」
「まあそれは、その、そうですけど」

 ご飯だけでこれって、随分とサービスがよすぎじゃないですかね。ぎゅうぎゅうと抱きしめられる感覚に思わずにやけそうになって、大きく咳払いをする。先輩は抱きしめる手を止めて「やめた方がいいかのう」と聞いてきた。「心臓に悪いので」といえば「わかった」といい再度ぎゅうぎゅうと抱きしめ出した。

「わかってないじゃないですか!」
「だって嬢ちゃん抱きしめて欲しそうな顔をしておったし」
「やめてください!アイドルでしょう!」
「だって嬢ちゃん我輩には好きな人と幸せになって欲しいと言ったじゃろう」

 逃れようとジタバタもがいていた手を止めて先輩を見れば、しまった、と朔間先輩は不自然に目線をそらした。「もしかして記憶残って」と呟けば先輩は居心地の悪そうに頷いて、まるで照れ隠しするように一度ぎゅうと私を抱きしめる。

「迷惑をかけて、すまなかった」
「迷惑だなんてそんな……確認ですけどドッキリとかじゃないですよね?」
「残念ながらドッキリじゃないよ、その、恥ずかしいからあまり蒸し返してほしくはないんじゃが」
「恥ずかしいって、その、零先輩の……?」

 そういうと彼は「我輩じゃって『零先輩』じゃもん」といいながらぎゅうぎゅうもう一度抱きしめた。ここまでくると恥ずかしいよりも痛いの方が勝っていて「しんじゃう!しんじゃいますから!」ともがけばゆるりと拘束が解かれた。先輩はゆっくりまばたきすると私の頭に自らの頭を寄せた。

「随分と寂しい思いをさせてしまった」

 先輩の声は、誰もいない軽音楽室に凛と響いた。この一週間でどれだけ泣いただろうか、どれだけ取り乱しただろうか。脳裏に浮かぶ自分の姿に恥ずかしさを覚えつつ「先輩のせいじゃないです」といえば、朔間先輩は私の額からゆっくりと顔を離して、微笑んだ。

「……なんだか不思議な一週間でしたね、狐に化かされたみたい」
「確かにのう、もう二度とごめんじゃが」
「そうですか?私は別に、もう一度くらいなら戻っていただいても構いませんが?」
「ふうん、嬢ちゃんはちなみに今の我輩と昔の我輩、どっちが良かった?」
「えー、秘密です」

 そう言って笑えば「昨日は即答だったのにのう」と寂しそうな声が響いた。そうかそれも覚えているのか。気恥ずかしくなって顔をそらせば、くつくつと笑い声が聞こえた。先輩はもう一度ぎゅっと私を抱きしめて「いなくなって寂しいか?」とぼそりと呟く。急に真剣になった声音に、ああこの人もまた不安なのか、と先輩を見上げた。

「……先輩は先輩でしょう?また彼の話、聞かせてくださいね」
「じゃあその時は嬢ちゃんの昔話も聞かせてもらわんとなあ」
「ええ、昔って、普通の女子高生でしたよ?たいして面白い話もないですって……」

 私が顔を歪めれば、先輩は嬉しそうに笑い、私を持ち上げた。浮遊感に思わず先輩にしがみつけば、これぞチャンスと言わんばかりに彼はそのまま棺桶の中に倒れこんだ。柔らかいクッションが頬を撫でる。狭い棺桶の中で二人顔をつきあわせて寝転んでいる。これは先生に見つかれば説教ものだな、とぼんやりと考えていたら先輩の手が髪の毛を払いのけて、その手のひらで頬を包む。

「そうじゃの、二人で暮らす頃になったらゆっくり昔の話でもしようか」
「……暮らす?」
「嬢ちゃん全然告白してくれんからのう、プロポーズまでいい子にして待っておくれ、な?」
「な?じゃなくて、えっ、ちょっとなんですかそれ」

 慌てて立ち上がろうとしたが、先輩が思いの外力強く頬を押さえているので立ち上がれない。痛い!といえば先輩はもう片方の手の人差し指を立てて口元にそれをあて「誰かにばれちゃうじゃろう」と嬉しそうに笑った。閉口する私にいい子じゃ、となだめるように微笑み頭を寄せてひとつ、額にキスを落とした。

「……今は何をお話ししてくれるんですか?」
「今?何が聞きたい?」
「……じゃあ将来の、はなし」

 苦し紛れにそう言葉を吐けば、先輩はとても嬉しそうに笑った。笑って頬から手を離して腰に回す。私も先輩の胸に顔を寄せれば、あの時と同じくらい、早く鳴り響く先輩の心臓の音がした。

「そうじゃな、未来(あした)のはなしでもしようか」



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