あしたのはなしをしよう。_09

 次の日、いつもよりも少しだけ高級なカツサンドとトマトジュース、そして自分のお昼ご飯を買ってーーどうやらお弁当箱は学校にあるらしく作ってもらえなかったーー教室へと駆け込んだ。昨日どうしたの?というクラスメートの言葉は「保健室で寝入っちゃって」と笑えばみんな納得したように頷いてくれた。悲しいような、嬉しいような。そういう認識が通ることを深く噛み締めながら自分の机にカバンを置けば、先ほどまでスバルくんたちと談笑していた北斗くんがこちらに気がついて、歩み寄ってきた。

「昨日は、大丈夫だったか?」
「あ、ああ!そのちょっと寝不足で倒れちゃって」
「そうか」

 そう言うと北斗くんは持っていたノートを二冊、私の机に置いた。ノート?と表紙を見れば昨日すっぽかした午後の授業のノートのようで、両方とも端に蛍光色の付箋が付いていた。

「昨日の板書だ、よければ使うといい」
「うわあありがとう!助かる!今度なにか奢るね!」
「気にしなくていい、わからないことがあれば言ってくれ、助けになろう」

 そういうと北斗くんはスバルくんたちの輪の中へと帰っていった。ノートをめくれば、どうやら付箋部分が昨日の板書らしく、綺麗な字でつらつらと昨日の授業の内容が記されていた。自分の机を探れば、持って帰りそびれていた午後の授業のセットがまるっと残されている。よかった残ってた。コピーするのも考えたけれど、紛失する可能性もあるのでもうその場で写してしまえと、私は席に座り筆箱からシャーペンを取り出した。
 さすが北斗君というか、随分と丁寧にまとめられているノートに思わずため息が漏れる。綺麗なのもさることながら、ポイントポイントがきっちりと抑えられていてとてもわかりやすい。これ、昨日の分じゃないところも写しておきたいかも。むくむくと湧き上がる欲を抑えつつせっせとノートを写していたら、机に影が落ちた。シャーペンを止めて見上げれば、そこには眉を寄せたアドニスくんが佇んでいた。

「昨日は、ごめんね」
「俺のほうこそすまない」

 重たい沈黙が流れる。続ける言葉が見当たらず「朔間先輩は怒ってた?」と問いかければ「怒ってはないが驚いていた」と彼は言い辛そうに口を開く。まあ、そうだよね。私は肩を落として、そして苦笑を浮かべてカバンから買ってきたカツサンドを取り出す。

「謝りに行きたいから、今日もついてきてもらっていい?」
「……わかった」

 少しだけ、アドニスくんの表情が和らいだ。人を引き連れて謝りに行くのは少し邪道だけれど、一人で行く勇気もあまりなかったし、今日は勘弁してもらおう。

 しかし、現実はうまくいかないもので、昨日放り投げてしまった授業だとか仕事だとか、そういう処理に追われていたら気がついたらお昼休みになってしまっていた。到底片付かない仕事量に頭を抱えていると、お昼をぶら下げたアドニスくんが「どうする?」と尋ねてきた。もちろんこじれる前に謝りに行ったほうがいいのはわかっているけれど、プロデューサーとしてやらなきゃいけないことはなによりも最優先にすべきだとわかっているので、私はカツサンドたちが入った袋を彼に手渡して「ごめん、無理そう」と口にした。「俺もてつだ」まで言いかけたアドニスくんは広がる机の上の資料を見下ろし「わかったうまく言っておこう」と教室から出て行ってしまった。

 まあ、そうなるよな。机の上に広がる繕い物を見て、私はため息を吐いた。これって明日のお昼までだった気がする。昨日ちゃんとやっておけば間に合ったのになあ。もう遅い後悔を浮かべながら机の端にパンを取り出してかじりながら裁縫を進める。お弁当じゃなくてよかった。結果オーライだったかもしれない。

 放課後になり、なんとか写し終わったノート二冊と、お礼のお菓子を添えて北斗くんの元へと向かうと、彼はひどく呆れたように「また倒れるぞ」と眉を寄せた。私が誤魔化すように笑いながらノートたちを手渡せば、北斗くんは諦めたようにため息を履いて、カバンの中からパックの野菜ジュースを取り出して私に押し付けた。

「無理はするなよ」
「うん、ありがと」

 スバルくんの北斗くんを呼ぶ声が聞こえる。「ああすぐ行く」と彼は返事をしてちらりとこちらを見た。「練習頑張ってね」と笑えば「今度また見に来てくれ」とだけ言い置いて気忙しそうにカバンをひっつかんで駆けていく。その背中を見送って、私は自分の席に戻り残っている繕い物を再開した。

 この時期はユニット練習に付き合ってくれ!という申請はぐんと少なくなる。大きなライブを控えていないのもあるが、上が抜けてまずは今のメンバーで結束することが先決になるようで、レッスンを見てくれ、までいかないユニットが多いからである。(同じ学年で組んでいるユニットはその他ではないが)
 逆に多くなるのが『繕いもの』の類で、修理に出すには小さいけれどこれを機に直してもらおう、程度の依頼がどっさりくることを最近知った。ため息を吐きながら小さい穴やほつれてしまった布と布を縫い合わせる。終わらせられない量ではないが、今日はこれしかできないだろうなあ。日直の子から教室の鍵を預かって、誰もいない部屋で繕い物をせっせと続ける。できるだけ頑丈に、できるだけ解けないように。この一年で学んだ技術を駆使しながら丁寧に針を通す。

 何時間こうしていただろうか。白い生地に落ちる紅の光に顔を上げれば、外には煌々と夕日が浮かんでいた。「もう夕方」とぼそりと呟けば「それだけ集中してれば早く感じるだろうな」と返答が来て「まあ、終わらないから」と返答してまた布の海に針を泳がせる。
 ……うん?今誰が喋ったんだ?手を止めて声のするほうを見れば、いつの間にいたのか朔間先輩が辟易したように「プロデューサーつっても雑用係みたいなことしてんだな」とまだ補修前の洋服をペラりとめくっていた。どうせいるとしても同級生だろうと思っていた私はひどく驚いて音を立てて立ち上がってしまった。ぽろりとその拍子に針が布の上に落ちる。ああ!と声を上げて見失わないうちに針を適当な布に刺せば「賑やかなやつ」と先輩は喉奥で笑い声をあげた。

「先輩、なんで……?」
「ようやく気付いたか」
「いつからいました?」
「その肩を縫うあたりからか、弁当箱返しにきた」

 そういうと先輩は見慣れた布に包まれた弁当箱を机の上に置く。ああ、先輩が持っていたのか。持ちあげれば思いの外軽くて、こんなに食べたっけ?と怪訝そうにそれを見つめていたら「悪い、食った」と一言。

「腐らせるのも悪いし、うまかった、ごちそーさん」
「あー、ありがとうございます、伝えておきます、母に」
「ん」

 そう言うと先輩は私の目の前の席の椅子を引き出して、背もたれを抱くようにして座った。かち合う視線に気まずさが生まれ目をそらせば「取って食いはしねえよ」と彼は笑う。そうじゃないんだけどな、と思いつつ私も腰を下ろして、先ほどの針をつまみ上げた。幸いなことにまだ針穴には糸が通っていたので、もう少しだけと糸を針穴から通してもう一度布に刺す。興味深そうにユニットの衣装をめくる先輩に私は一つ、深呼吸して口を開いた。

「その、昨日はすいませんでした」
「俺も悪かった、『俺』とはいえ惚れたやつを馬鹿にされたらそれは怒るもんな」

 飄々と笑う先輩に「それはもういいんです」といえば、彼の顔から笑顔が消えた。恐々しく「俺のせいか?」と彼が尋ねるので私は黙って首を横に振る。そうじゃないんです。私がもう、決めたことなんです。心の中でそう言って彼を見れば、いつもは自信満々に光っている先輩の瞳が、不安に陰っているのが見えた。それに気付けたらよかったのに、私の口はろくに彼の顔を見ることもないままするすると言葉を吐く。

「だって先輩は、先輩じゃないですか」
「はあ?」
「前の先輩を好きだったことは変わらないですけど、ずっとその気持ちを持ってても何も変わらないですし、だから一旦、忘れようと思いまして」
「忘れるって」

 その言葉に苛立ったように先輩は立ち上がって私を見下ろし、そしてすぐに我に返ったように視線を逸らした。そのまま一歩私から離れると「今日はもう帰る」とそのまま立ち去ってしまった。「先輩!」と慌てて呼び止める私の声が虚しく響く。誰もいなくなった教室に、静寂が波のように押し寄せる。
 もう誰もいなくなった教室のドアを私はただただ呆然と見つめる。ああもしかして、またやってしまった?言い方が悪かった?それとも伝える順序?
 押し寄せる後悔に唇を噛み締めて、じっと扉を見つめる。見つめたところで先輩が戻ってきてくれるはずもなく、ただただ時間だけが過ぎていった。


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