あしたのはなしをしよう。_07

 トイレから出たのは随分と暗くなってからだった。臭いとかうつってなきゃいいけど、とブレザーを嗅いでみたがどうもわからない。臭いがうつっていたとしてももう帰るから気にしなくていいけど。人気のなくなった廊下を見つめながら、今日のお昼のことを思い出して、一つため息を吐いた。
 もう下校のピークは過ぎているらしく、数多ある教室からは物音一つしなかった。誰にもすれ違わない、真っ暗な廊下。ごうごうと聞こえる風の音に耳をすませながら教室へと歩みを進める。そういえば春一番が吹いたって天気予報で言っていた気がする。窓の外でふるふると震える花々を見つめて、私は眉を寄せた。こうして季節は巡っていくのだろう。否が応でも、確実に。

 教室へとたどり着いた私は取っ手に手をかけ力一杯横に引いてみたが、どうやら施錠をされているらしくびくともしなかった。幸いなことに携帯はポケットの中だ。財布は鞄の中だけど、職員室に取りに行くのも気がひけるし、施錠されている教室の中にあるなら盗まれる心配もないだろうと回れ右をする。

 明日考えよう。なんだか今日はもう誰とも会いたくない。

 そう考えて玄関にたどり着いたその時、私のロッカーのすぐそばで、まるで待ち伏せるように佇んでいる人影に気がついた。それは私を見るなり怒ったように眉間にしわを寄せて「おっせえよバカ」と一つ、吠える。

「晃牙くん」
「鞄、ねえと困るだろ」
「え?あ、ありがとう」

 軽々と投げられたそれをなんとかキャッチするが、存外重たいそれに思わず数歩よろけてしまう。晃牙くんは「大げさなやつ」と私を一瞥すると、またロッカーにもたれかかって、つま先をとんとんと何度もすのこに叩きつける。外履ですのこに上がっちゃダメなんだよ、という言葉が湧いて出たが、とてもじゃないけど口にする気分でもなく、黙ってロッカーを開けた。内履を片付け外履をすのこの外へと落とすと、彼は眉を寄せて「なんか、くせえ」と言い捨てた

「便所くせえ」
「……あー、その、うん、そうだろうね」
「帰ったらスプレーかけとけよ、くせえ」
「はあい」

 生返事をしながら屈み、靴紐を結びながら「朔間先輩を待ってるの?」と聞けば「お前を待ってたんだよ」とぶっきらぼうに返される。驚き目を丸める私などには気に留めず「吸血鬼ヤローは泊まるらしいぜ、晩飯が手に入っただとか、なんだか」と晃牙くんは言葉を続け腕を組んだ。晩飯?と首を捻るがどうやら詳細はしらない晃牙くんも同様に首をひねった。
 靴紐を結んで立ち上がれば、晃牙くんは腕をといて私の隣に並んだ。春先とはいえまだ気温は肌寒い。ストールは持っていただろうかと鞄を開いたがどうやら教室にあるらしくそれらしいものは見当たらなかった。

 二人で校門を出て、レンガ道を歩く。彼のブーツが私のローファーが不揃いにこつこつと地面を叩く。道行く人々の楽しそうな声。最後の追い込みと声を張り上げる商店街から響く声。雑然とした空気を泳ぐように私と晃牙君はただただ道を歩く。

「私、どうしていいかわからないよ」

 喧騒の中だから溶けてしまえと口にした言葉。晃牙君は振り返ることなく「考えすぎだ」と口にする。これだけ音にあふれた場所なのになんでこんなにはっきり聞こえるのだろうと思いながら「そうかな」と言えば間髪入れず「そうだ」と返ってきた。

「今日、先輩にひどい態度とっちゃった」
「ああ、聞いた」
「先輩が一番大変なのにね、何やってるんだろ、私」
「後悔してるなら謝ればいいだろ」
「……晃牙くん」
「なんだよ」
「もしずっと、先輩が戻らなかったらどうしよう」

 気がついたら商店街は抜けていて、閑静な住宅街の真ん中に、私たちは立っていた。道を照らす街灯があるだけの殺風景の中、晃牙くんは私の問いかけに初めて振り返った。月のような揺るがない琥珀色の光が不安に揺れる私を見つめる。

「俺は、あの人があの人である限り、追いかけるって決めてんだよ」

 風が、吹いた。春の風が彼の髪を、私の髪を穏やかに揺らす。決意に満ちたその姿は私に持ち得ないものをたくさん持っている気がした。私には彼ほどの覚悟も、勇気もない。つんと、冬の名残のような冷たい風が鼻を刺す。歪む視界に唇を噛み締めればぼろり、と大きな雫が頬を伝った。
 得体が知れないから怖いというわけではない。一番悔しいのは性格が戻ってしまっただけで距離を開けてしまう私の弱さだ。本来ならサポートをしなきゃいけないのに、自分の心を最優先にして逃げ出してしまった自分自身が、嫌で嫌でたまらない。
 ぼろぼろと伝う涙は拭われることなく地面に落ちていく。灰色のアスファルトに、ひとつ、ふたつ、水玉ができる。

「……でもそれは俺様の話であって、お前は好きにしていいと思う。なんつーか、初めて会ったやつに近い状態なら、好きでいろって言ったって難しい話だと思うしよ、誰もお前のこと責めねえよ」

 ぐずりと鼻を鳴らして彼の顔を見つめれば「ひっでえ顔」と晃牙くんは笑った。慌てて袖口で鼻の下を追おうと「隠しきれてねえよ」と彼はさらに笑う。そして振り返り歩き始める彼に、私はとぼとぼとついていく。

「どうしようつっても、俺たちには何もできねえんだから、見守るしかねえだろ」
「うん」
「でもな、あの人だって吸血鬼ヤローだって、同じ『朔間零』であることは忘れんなよ」
「……そうだね」
「だからその、多分お前が一番テンパってるとは思うから、まずは一回ゆっくり話してみろ、もし一緒にいるのが辛くなりそうなら羽風先輩に俺から話してやっから」
「晃牙くん、ありがと」
「あと」

 晃牙くんが立ち止まる。私もつられて足を止めると、彼は真剣にじっとこちらを凝視して、口を開いた。

「マジでお前便所臭いからちゃんと今日風呂入れよ」

 晃牙くんってほんとこういうとこが残念だよね、と膝裏を軽く蹴れば、うるせえ、と頭を思い切り叩かれた。じりじりと街灯が照らす夜道で、私たちは顔を見合わせて、笑った。


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