あしたのはなしをしよう。_06


 朔間先輩が『朔間先輩』の真似をしたとき、ひやりと、気味の悪いものが喉元を通る感覚がした。もともと朔間先輩は朔間先輩だから、モノマネができるのは当たり前なのだろうけれど、彼の言葉を借りて言えば『取って代わった』ような気がしたのだ。このまま朔間先輩が戻らなくて、彼が『朔間先輩のふりをしたまま』君臨する、ような未来が垣間見えたからかもしれない。
 一番大変なのは朔間先輩なのに、こんなこと考えるのはいけないとわかっている。わかっているが、どうしても心に先ほどの光景がのしかかってしまうのだ。

 昼休みが過ぎ放課後になって、逃げるように他のユニットのレッスンに出かけた私は彼が今日一日どう過ごしたのかは知らない。晃牙くんから入っていた「今日も俺の家に泊まらせる」という連絡を見る限りでは滞りなく彼の記憶喪失は隠せているようだ。
 このままずっと隠し通すつもりなのだろうか。卒業して、環境が一新するならバレる可能性だってかなり低くなる。一ヶ月もない期間隠し通せれば、きっともうこの出来事が明るみに出ることはないだろう。でも、本当にそれでいいの?

 私は医学に明るくない。どうすれば彼の記憶が戻るかわからない。今からでも先生たちに連絡したほうがいいのではないか。でも隠し通すとユニットで決めたなら私が暴いてしまうのは良くないのではないか。
 ぐるぐると考えが巡る。朔間先輩は賢い。きっと未来の彼のふりなど容易いだろうし、どんどんとうまくなっていくだろう。それを完全に会得した時、一年間共に過ごしてきた『朔間零』はどこに行ってしまうのだろうか。消えてしまうのだろうか。

 遣る瀬無い気持ちが膨らんで胸を圧迫していく。つらい、どうしようもない、でも打ち明けられない。どうしたらいい?

 ラジカセの隣に立ってユニットの練習曲を流す。聞きなれた音楽に、見慣れたアイドルたち。ビデオカメラの小窓越しに彼らの練習を眺めながら、床を擦るゴム底の音を聞く。リズムに合わせて踊る甲高い音は、いつもなら心が踊るというのに、今日はなぜか沈んで聞こえる。
 考えないようにしようと、練習する彼らをいつも以上に丹念に見守った。事細かに気になったところを紙に書き写す。まるで不安を吐き出すように、丹念に、丁寧に。

 次の日、お昼休みを迎えた私はどうしようと考えあぐねいていた。つい買ってしまったカツサンドとトマトジュースはカバンの中にある。お弁当箱もカバンの奥底に眠っている。でも正直軽音楽室へ出向く気分ではなかった。ぐるぐると胃の中に気持ち悪い何かが巣食っているようだ。食欲はまるでない。朝もあまり食べられなかったので、お昼はせめて何かを食べなきゃいけないとは理解している。でも食指は動かない。
 どこか静かな場所で時間を潰そうと立ち上がれば、私が何も持っていないことに不審がったのか、アドニスくんが呼び止める。応じたくはなかったけれど無視するのも失礼だろう。頭の中に言い訳を準備して振り返れば、彼はまだ封を切っていないあんぱんをこちらにずいと差し出していた。

「これだけでも食え」

 見抜かれていると、彼から目をそらす。トイレに行こうと思って、だとか、先生に呼ばれていて、だとかそういう言葉を出せばよかったのに私の口からすべり出たのは「今はいらない」という言葉。アドニスくんはどうやらこの返答も分かりきっていたようで「でも食べなければ強くなれない」と首を振る。
 こうなってしまうと頑固な彼の性格は分かりきっているので、小さくため息を吐いてカバンからお弁当を取り出した。丁度空いていた彼の前の席の椅子に腰掛けてお弁当を机の上に乗せる。アドニスくんは差し出していたあんぱんを自分のほうへと戻し、封を開ける。気乗りしなくてのろのろと包みを開けば「今日は朔間先輩のところへ行かないのか?」とアドニスくんが聞いてきた。

「今日は、いかない」
「そうか」
「なんか、その、うん」

 歯切れの悪い言葉だけを吐いてお弁当の蓋を開ければ、いつもの彩り豊かな母親お手製の品々が顔を出す。いつもならこの時間空腹に急かされるまま食べつくすのだけれど、鮮やかすぎるその見てくれにやはり食欲が沸かない私はそっと蓋を閉じた。その様子を見ていたアドニスくんはあんぱんをかじる手を止めて、まだ食べかけのそれを袋の中に入れる。そして封を閉じようとするので「食べなきゃ強くなれないよ」と私は苦笑を浮かべる。アドニスくんはコンビニ袋にそれを入れるとおもむろに立ち上がった。

「場所を変えるか」
「え?」
「ここでは話し辛いこともあるだろう」

 そういうとさっさと教室のドアのほうへ歩き去ってしまうので、私も慌てて彼の背中を追いかけた。自分の机を通り過ぎるときにふと、買っておいたカツサンドたちが頭によぎる。見ればアドニスくんのビニール袋の中にはあんぱんが一つだけ。どうせダメになっちゃうなら、彼に食べてもらったほうがカツサンドたちも幸せだろう。そう思いカバンの中からカツサンドたちをひっつかんで早足でアドニスくんを追いかけた。

 てっきり屋上だとかそういう人気のないところへ移動すると思ったのに、彼が足を運んだのは私が今一番避けたい場所である軽音楽室だった。なんで、と問いかけるよりも前に彼は扉を数度ノックする。中から朔間先輩の声がして、アドニスくんは迷いもなくドアを開けた。
 丁度扉の影に隠れているから、中にいる先輩には私の姿は見られていない。だから、ここで逃げ帰ったとしてもきっと、ばれないだろう。心臓がやけに大きく鳴る。踏み出そうか、戻ろうか、考えた末私は勇気を出して一歩軽音楽室へと踏み込んだ。

 薄曇りだからカーテンを開けているらしい。いつもよりも若干明るい軽音楽室で朔間先輩は椅子に腰掛けて何かを読んでいた。私たちが数歩中に入ると彼はそれから顔を上げて「今日は二人で来たのか」と手元の何かを机の上に置く。どうやら楽譜をよんでいたらしい。懐かしいーー彼にとっては新しいーー譜面は走り書かれたようなメモが所々記載されていた。

 先輩は私の手にぶら下がっているビニール袋を見つけると、立ち上がりこちらへと歩み寄ってきた。できるだけ顔を見ないように「お昼です」と突き出せば、朔間先輩は気分を害した様子もなく嬉しそうにそれを受け取る。ちらりとアドニスくんのほうを見れば、彼は少しだけ表情を崩しこちらに笑いかけ、そして適当な椅子に腰掛けた。
 先輩はビニール袋を片手に先ほどまで座っていた椅子を引き出し「座れよ」と言って、棺桶に寄る。蓋を閉めた棺桶に腰を下ろすと、重厚な軋みが部屋に響いた。食欲はないんだけど、と思いつつ、私も彼が先ほどまで座っていた椅子に腰を下ろしてお弁当を広げる。先ほどまで鮮やかに映っていたお弁当も、薄暗い部屋だからか少しだけくすんで見えた。ため息をひとつついておかずをつまめば、慣れ親しんだ味が口内に広がる。ただひたすらにそれを咀嚼していると、あんぱんをかじっていたアドニスくん思い立ったように口を開いた。

「朔間先輩は、困ったことはないのか」
「困ったこと?今のとこねえな、調子も悪くねえし、うまくごまかせてるみたいだし」
「そうか、ならよかった」

 会話が途切れる。会話をぶつ切りしてしまうのはアドニスくんのよくない癖だけれど、朔間先輩は特に気にすることもなくカツサンドを頬張っている。そしてまた思い出したかのようにアドニスくんが口を開き「誰かにばれてそうだとか、そういうのは大丈夫か?」と言う。先輩はかじろうとしていた口を閉じて思慮を巡らし「ねえな」と答える。アドニスくんは心底安心したように表情を和らげて「そうか」とまたあんぱんをかじった。

 なんだか思春期の息子と、父親の会話みたい。傍観していた私はそんなことを思った。朔間先輩も必要以上に話そうとはしないし、アドニスくんも会話を続けようとしないし、探り探りのような会話はすぐに途切れて終わってしまう。今まで仲がよい彼らを見てきただけあって不思議な光景だ、と私は思った。同時にやはり彼は過去の彼なのだと、不安に拍車をかける。

 のろのろとご飯を口に運んでいたら、カツサンドを食べ終えた朔間先輩がトマトジュースのストローの袋を突き破りながらため息を一つ吐いた。機敏に反応したアドニスくんが「悩みでもあるのか?」と口にする。朔間先輩は驚いたように目を丸めて、そして首を横に振るった。

「そういうわけでもねえけど、なんつうか、随分おかしな喋り方をしてたんだな、俺」

 ろくに噛んでいないご飯を、思わず飲み込んでしまった。心の奥底で、抑えなければいけない感情が大きく膨らむのを感じた。「そうだろうか」と返事するアドニスくんと、辟易したように何かを返す先輩の声が聞こえる。ぷるぷると震えるお箸をお弁当の上に添えて、感情を抑えるように小さく深呼吸する。確かに今の彼からすればおかしいというか、時代錯誤というか、とにかく違和感のある喋り方かもしれない。でも、でも。

「……でも、私は好きでしたよ」

 存外静かな声が出るものだと思った。滑り落ちた言葉はこの部屋の空気を凍らせるには十分な一言だったようで、朔間先輩はパックにストローを指す手を止めてじっと私を見つめていた。バツが悪そうに「悪いとは言ってねえだろ」と口にする彼が、彼と同じ顔をしてそんなことを言う彼が心のどこかで許せなくて、私は黙って席を立つ。

 身勝手なのはわかっている。わがままなのもわかっている。でもどうしても信じたくなくて、信じられなくて。一番大変なのは朔間先輩だってわかっているのに、どうしても、どうしても許せなくて。
 アドニスくんの私を呼び止める声も無視して、そのまま廊下に出た私は、行く当てもないままふらふらと歩みを進めた。
 誰もこない女子トイレに入って「最低だ」と一言吐くようにつぶやいて、うずくまる。ぼろぼろと流れる涙は悲しいからだろうか、贖罪だろうか、もうわからない。
 チャイムが鳴っても、携帯が震えても、私はただひたすら篭るようにトイレの中でうずくまっていた。

 遠くの方で梅が咲いている。
 彼らが卒業するまで、もう少ししか時間はないのだ。



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