あしたのはなしをしよう。_03

 軽音楽部室に駆け込んできた晃牙くんは朔間先輩と羽風先輩、そして膝の上に座ってーー未だに背中を掴まれているーー私を見て思い切り眉を顰めた。薄暗闇なこの部屋でもわかるくらいに彼の顔には大きく『面倒くせえ予感がする』と書いていたし、同時に駆け込んできたアドニスくんもこの異様な雰囲気に眉を顰めていた。

 晃牙くんは今の朔間先輩が以前の朔間先輩だと思っているから、膝上に座る私を見るなり「テメェなに近付いてんだよ!」と大きく吠えて、その吠え声に一瞬朔間先輩は目を丸くしたものの、すぐさま晃牙くんよりも気分を害した顔で「ああ?」と威嚇を返した。その響きにアドニスくんが晃牙くんの前に遮るように出る。そして彼を見て「朔間先輩……?」と伺うような声を出す。
 朔間先輩はその言葉に「なんだよ」とぶっきらぼうに返すし、晃牙くんは理解はしてないけど先ほどの威嚇で尻込みをしてしまったのか閉口してしまったし、羽風先輩は頭を抱えたままなにも言わなさそうだし、アドニスくんは朔間先輩の返事に眉を寄せるばかり。誰も説明をしようとしない空気に耐えきれなくて、私は朔間先輩に小さな声で「説明してくるので離して欲しいです」と行ってみた。ブレザーを脱いで逃げるという手も考えたのだけど、どうやら中のシャツまで握りこんでいるようでそれは叶わなかったのだ。

 朔間先輩は一度眉を寄せたが、少し考えたのちに手を離してくれた。ぼそりと「晃牙くん悪気はないですよ」といえば「わかってる」とひどく鬱陶しそうにそっぽを向いてしまった。
 なんだか節々と、晃牙くんと重なるかもしれない、この人。ということは晃牙くんもあんな穏やかになる可能性を秘めているということかな?そんなおおよそ口には出せないことを思い浮かべながら私は先輩に背を向けて二人に駆け寄る。私がよればアドニスくんはまるで保護するように朔間先輩から背を向けて、私を自らの影に隠した。そして心配した声音で「大丈夫か」というので私は軽く笑って「大丈夫だよ」といい一歩横に出る。

「な、なんだよあいつ機嫌悪いのかよ」
「そうじゃないみたいで、あのね、落ち着いて聞いて欲しいんだけど」
「どうした」
「なんかね、朔間先輩記憶喪失らしくて」

 その言葉を放った瞬間、弾かれるように晃牙くんとアドニスくんは朔間先輩に視線を投げた。先輩はその視線を払うように一つ舌を打ち、彼らも慌てて顔をこちらへと戻した。

「……ここ一年の記憶がすっぽり抜けてるらしくて」
「記憶が抜ける?体調は大丈夫なのか?」
「羽風先輩が言うには問題ないって」

 小さな円陣みたいに三人で肩寄せ合ってヒソヒソ話していると、後ろでぎしりと軋む音が響いた。見れば朔間先輩が退屈そうに足を組み直していて、そのあまりの威圧感に再度私たちは顔を突き合わせる。

「……お前が言ってることは、間違いなさそうだな」
「ってことはなんだ、今の吸血鬼ヤローは、あの頃の朔間先輩なのかよ」

 そう言うや否や、晃牙くんは私の陰から顔を出して朔間先輩を見つめた。ぼそりと、本当に小さな声で「朔間先輩」と晃牙くんが言う。朔間先輩はその言葉に嬉しそうに口角を上げて「しばらく見ねえうちに元気に吠えるようになったじゃねえか晃牙」と言って笑う。晃牙くんは一瞬複雑そうな顔をして、それでも少しだけ嬉しそうに「朔間先輩」ともう一度、名前をなぞる。

 あの頃の、スーパースターの、朔間先輩。

 ふと、脳裏にそんな言葉が浮かんだ。私はよく知らないけれど、晃牙くんにとって朔間先輩であってほしい姿はもしかしてこうだったのかな。1年間の思い出よりも、こちらの方が嬉しいのかな。そんなことないよね?しかしながら羨望というものは心に留まりやすいものだ。今まで燻っていたとしても、何かの拍子に簡単に、火がつく。

 晃牙くんが急に遠くに行っちゃった気がしてブレザーを掴めば、晃牙くんは驚いたようにこちらを見下ろして「なんだよ」と吠えた。その顔があまりにもいつもの晃牙くんで、安心した私は彼から手を離す。その変化があからさまだったのか、晃牙くんは苦々しく顔を歪めて、一発、私の頭を叩いた。よく見る光景に羽風先輩もアドニスくんもあまり驚きはしなかったものの、朔間先輩だけは目を丸くして彼を見て「女にそれは、ねえだろ」とぼそりと呟く。

 正直半信半疑だった記憶喪失も、その一言で、すとん、と信じてしまった。仲良しじゃのう、とか、わんこやおいたはいかんぞ、だとかそんな類の言葉じゃなくて、明らかに白けたような表情で呟くその言葉はきっと彼の心からの声に違いなくて。晃牙くんも少し居心地が悪そうに「マジで忘れてんだな」と呟くし、私も「本当だったんだ」と呟いてしまった。

「え、もしかして今の今まで信じてくれてなかったの?」
「いやあ羽風先輩たちがドッキリでも仕掛けてるんじゃないかなって」
「うわあひどい傷つくなあ、ほんとほんと、冗談みたいだけどね、本当なんだよね」

 そして本当だから困ってるんだよね。羽風先輩がそう肩を落とす。その言葉に朔間先輩は少しだけ顔を顰めて、それでも憮然と足を組み直す。
 ちらちらと、カーテンから滑り落ちる陽の光も赤から深い紺色へと変わってきた。

「どうするべきか」

 アドニスくんの言葉は全員に聞こえていたはずなのに、誰もなにも言わず、ただ口を閉じていた。


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