あしたのはなしをしよう。_02
なんかタイムトラベルみてえ、と胡散臭そうに棺桶に腰掛ける彼は、どうやら私を解放する気はないらしく、首に腕を巻きつけたまま大きな欠伸を浮かべた。
原因はわからないけれど記憶の欠落があるのはどうやら本当のようで、彼の頭は今から大体一年分くらいの記憶がすっぽりと抜けているらしい。だから晃牙くんやアドニスくん、羽風先輩のことはわかるけれど、葵くんをはじめとする一年生たちや私のことはわからない。恐る恐る『fine』の単語を出せば苦々しく顔を歪めたので、どうやら過去にあったドンパチの記憶はあるらしようだ。(この辺りは私自身詳しくないからわからないけれど)
彼の腕の中に収まりながら、そうか一年記憶がなくなるとそういう風に感じるのか、なんてのんきなことを考えた。こういうのってフィクションしか読んだことはないけれど、1年間ならきっとそこまで基礎的な知識の差(例えば簡単な計算だとか、言語能力だとか)はないとは思うし、いやでもここ1年でUNDEADの新譜って結構出たよね?ダンスだって1から覚え直さなきゃいけないし、それに、それから……。
私が必死に頭の中でそろばんを弾いていると、朔間先輩は退屈そうに軽音楽室を逡巡し、そして私の首を引っかけたまま棺桶の方へと歩き出した。首が締まらない程度の距離感を保ちながら彼に連なり歩きながら「そろそろ腕離しますか?」と聞いてみれば、彼はすんなりと私の首から腕を離した。そのまま棺桶に腰を下ろすので、今のうちに羽風先輩に詳しいことを聞こうと一歩踏み出せば、掴まれる手首。彼は戸惑う私に「座れよ」と鋭く放った。
それは棺桶だろうか、それともこれ見よがしに開いている膝の上にだろうか。そういえば膝枕をせがまれることはままあったものの、逆はなかったな。なんてことを思い出しながら、一番ありえないと思った選択肢「床にですか?」と尋ねてみる。朔間先輩は表情を崩すことなく「膝」と一言。困って眉を寄せればじろりと睨みつける。
晃牙くんが今度彼の真似をしたら本場の睨み方を教えてあげよう。そんなことを思いながら恐る恐る彼の膝の上に座り込んだ。
「きみってさ、順応早いよね」
「まあその、一年くらいここにいたら、誰でもこうなると思いますけど」
個性的だからね、みんな。そう羽風先輩が笑えば、朔間先輩は「そうだな」と答えて両手を後ろについた。随分とくたびれた息を吐き出すので、一層に軽音楽室の空気の淀みが増した気がした。
もし彼らの言っていること(朔間先輩が一年の記憶を落っことしてきた)が本当だとしたら、そりゃあ精神はとても参ってしまうだろう。だって知っているようで知らない世界に急に放り出されるのだから。一年というのは短いようでずっとずっと長い。身長だって伸びるし性格だって、人との関係性だっておおきく変わるには十分な時間だ。特に彼みたいに大きく性格が変貌してしまっているならば、尚のことに。
「不安ですか」
飛び出ていた言葉に朔間先輩は「当たり前だろ」とこちらを見ずに返事をする。「私にできることはありますか」と尋ねれば「味方ならそばにいてくれ」と言いようやくそこで仰ぎ見ていた天井から視線を外し、こちらを見る。いつもよりも細まった目が、怪訝そうにさらに細まる。
その瞳を見て、先ほどまで心に侵食していた『怖い』の感情から、『なんとかしてあげたい』気持ちが芽吹くのを感じた。私も戸惑ってはいるが、この人だって戸惑っているのだ。
不安にちらつく瞳が、信頼に足るのか再度品定めするようにまっすぐこちらを射抜く。私は自分の膝の上で握りこぶしを作り「私は夢ノ咲アイドルの味方です」とはっきり声に出した。「それは朔間先輩、あなたも例外じゃありません」震える唇が紡ぐ言葉をおとなしく聞いていた彼は「そうか」と言って小さく笑った。
「よくわかんねえけど、こいつを信じたらいいんだな」
先ほどまで携帯をいじっていた羽風先輩は、どうやら用件が終わったようで携帯を閉じて制服のポケットにしまった。「そうそう、彼女に任せておけば問題ないよ」と言いながら微笑むとこちらへゆっくりと歩み寄ってくる。ぎしりぎしりと妙に響く床の音に違和感を感じて尻込みをすると、背中のブレザーをぎゅっと掴まれた。見れば朔間先輩がこちらをじろりと睨み見下ろしている。
あれ、もしかして膝に誘導したのも、最初に肩を組んだのも私を捕まえるためだったりする?
「君に折り入って話があるんだけどね、朔間さんのこの状況をうちのユニット以外のみんなに隠して欲しいんだ」
普段より凄みを増した二枚看板の片割れは私と視線を合わすようにしゃがみ込んで優しく微笑んだ。軟派な雰囲気はおくびにもださない笑顔に圧倒されて、私はよく考えないままひとつ、首を縦に振っていた。