あしたのはなしをしよう。_01
特別なことが起こる予兆って、案外そんなものないのかもしれない。いつも通りの風景に、ありふれた空気に、ほんの少しの隙間を見つけてするりと入り込むように怪奇というものはやってくる。そんな怪談の口火のような文句も納得してしまうほどに、それはするりと私たちの前に現れた。
助けて欲しいことがあるんだと、羽風先輩からの連絡が届いたのは、放課後も終盤に差し掛かった頃だった。
冬の寒さはようやくほぐれ、開け放った窓からは風が運んできたのだろうほんのりと花の香りが漂う、三月上旬。卒業式までもう一ヶ月もない学院は来学期に向けての準備で大忙しだった。上期生から教えを請うもの、新入生獲得に向けて策を練るもの、現メンバーの結束を固めるもの。それぞれがそれぞれの忙しさを抱える中、いつもよりも少ない仕事量を抱えた私はのんびりと過ごしていた。今手持ちにあるのは金曜日までに済ませなければいけない繕い物だけだ。毎日コツコツやれば別段急ぐ必要もないだろう。
教科書を整えカバンの中に入れて、忘れ物はないかなと見回していたらポケットの中に入れていた携帯がぶるりと震えた。何気なしにポケットから取り出すと、思わず「うっ」と声が漏れる。待ち受け画面とともにディスプレイに表示されているのは『羽風先輩』の四文字。それを見た瞬間、もうそれはすごく嫌な予感が心から背中から、這い回るように身体中を駆け巡っていた。
と、いうのも羽風先輩の連絡は大抵二パターンに分けられるからだ。大抵は「遊ぼうよ」なんて軟派な連絡。これに関してはこの一年で流す術を身につけたから問題はない。もう一つは「朔間先輩でも解決できないユニットの厄介ごと」だ。
返礼祭も終わり、羽風先輩なりに「そういうこと」に区切りをつけたことは知っている。だからなおさら、前者である可能性は限りなく少ない。
私は一度息を長く吐き出して、携帯を左手に乗せた。どうか悪い報告じゃありませんように。そう祈りながら真っ暗なディスプレイを指でぐるりと円を描き、意を決してメッセンジャーアプリを立ち上げる。彼ら専用の真っ黒な壁紙とともに目に飛び込んできたメッセージに蹴飛ばされて、私はすぐさま荷物をまとめて教室を飛び出した。
放課後の軽音楽室は陽気にギターを鳴らす音も、軽快に飛び跳ね床を叩く音も、何一つなく、ただ静寂と時計の音だけが暗闇に溶け込んでいた。私がやってくる前から軽音楽室は真っ暗だったから、もしかしていたずらなのかと思った。いや、いたずらであって欲しい、と思ったのだ。
胸の内をえぐるような嫌な予感はここに近づくたびに強くなって、ドアの前に立てばえずいてしまうんじゃないかと思うほど、気分が悪かった。眉間に寄った皺を伸ばすように指で押し込んで、深く長い息を吐く。そしてどうかいたずらであってくれ、と三回扉を叩けば、予想に反して「どうぞ」という声がドアの向こうから聞こえた。
観念して中へと滑り込むと、夕日を遮断するように厚く惹かれたカーテンと、カーテンの表面を滑り床に落ちた真っ赤な光溜まりがまず目に入った。
『逢う魔が時』
そんな冗談にならないような言葉が頭に浮かんで、慌てて心から追い出す。唯一の光源であるそれは風に揺られてゆらゆらと形を変えて軽音楽室を照らしていた。
その薄暗闇の中、まずは羽風先輩を探さないとと部屋を見渡せば、壁に寄りかかるように彼は立っていた。視線がかち合うと彼は申し訳なさそうな笑顔を浮かべてーー私はその笑顔にさらに嫌な予感が増幅したーーゆるく手を振った。ふり返すことなく「用事ってなんですか?」と尋ねれば彼はううん、と歯切れの悪い言葉をぽろぽろと落としながら目線を逸らす。
「うんあのね、えっと、どう説明していいかわからないんだけど」
羽風先輩の方へ寄ろうとした足が、ピタリと止まる。二人しかいないはずなのに、身体に絡まるような視線に気がついたからである。私は恐る恐る視線を感じる方向に目を向けた。視線の先には朔間先輩御用達の棺桶が鎮座している。いや、それだけではない。なにかが、いる。目を凝らして観てみれば、棺桶の上に朔間先輩が座っていた。しかし様子がおかしい。いつもの半睡で、穏やかな彼ではない。まるで棺桶を玉座のように腰掛けて仰々しく足を組んでいる『何か』がそこにはいた。
朔間先輩だと思った。直感で。でも朔間先輩ではないと思った。これも直感だ。
朔間先輩で朔間先輩ではないもの、というのは上手に表現できないが、放つオーラはその人そのものなのだけれど、雰囲気がどうにも刺々しいのだ。私の視線は彼を捉えた瞬間から離れなくなって、不躾ながらもじろじろと彼に視線を向けてしまった。
光源が届いていないのに、妙に明るい紅の瞳が二度、瞬きをする。
「誰だこいつ」
朔間先輩の声で、おおよそ朔間先輩が言わないようなことを吐き出すので、私は羽風先輩を見つめた。羽風先輩はわかりきったかのように苦笑を浮かべて私の名前を口にしたが、思い当たる節がなかったらしい『それ』は押し黙り、そして値踏みするように上から下までじろじろと眺めた。
「プロデュース科の女の子だよ、プロデュース科はわかる?」
羽風先輩は言葉を続けるが、返答はない。どういうことだろうか。おいてきぼりの雰囲気に息を飲めば、随分と埃っぽい味がした。
朔間先輩、だよね。多分。ようやく慣れてきた目を見開いて彼を見たが、どこからどう見ても朔間先輩だった。でもやっぱりーー例えば行動だとか、言葉の端々だとかーー朔間先輩らしくなくて、私はぎゅっと目をつぶった。そして脳裏に昨日までの、私が知っている朔間先輩を思い浮かべる。その面影が消えないうちに目を開いて、私は彼をまっすぐ見つめた。
「さくま、せんぱい」
朔間先輩じゃよ、だとか、零と呼んでおくれ、だとか、どうした嬢ちゃんや、だとか。名前を読んだ後に返される言葉を脳裏にリフレインさせるが、そんな思い出を蹴散らすように『それ』は「ああ?」と凄みをきかせた声を上げた。
その迫力に思わず一歩後ずりながら、理解してしまった。これは朔間先輩だ。そう、そんなこと現実に起こるはずはないとわかっているけれど、なんとなく本能が感じ取ってしまった。
これは、過去の、5奇人時代の、朔間零だ。
ちょっと待て、何が俺は昔の朔間先輩の真似をしている、だ。どこがよ。全然迫力が違うじゃない。無理、めっちゃ怖いじゃんこの人。晃牙くんそりゃわんこって呼ばれるよ。
心の中で八つ当たりのような思いを級友にぶつけながら羽風先輩に視線を投げれば、彼は困ったように肩をすくめて笑った。いや笑い事じゃないし。
「つうかなんで女が混じってんだよ、女装か?」
「女装じゃないよ、転校生。来年から本格始動するプロデュース科の子だよ」
「プロデュース科……?」
「君にも説明しなきゃね、かいつまんで話すと朔間さんなんだけど急に一年間の記憶がすっぽりと抜けちゃったみたいで、別に身体に異常があるわけじゃないらしいから安心していいよ」
するっと、そんなファンタジックなことを伝えられて唖然と朔間先輩を見つめる。記憶喪失、とぼそりと呟けば羽風先輩は眉尻を下げて「そんなとこ」と笑った。いや本当に、笑い事じゃないし。
「体調は、本当に大丈夫なんですか……?」
私の伺うような声に朔間先輩は鬱陶しそうに顔を歪める。その反応に、みしり、と心の芯にヒビが入った。見ず知らずの女からいきなり心配されることを不審がるのは確かに正しい反応ではあるけれど、ちょっとこれは、辛い。なまじ私がバッチリ彼を覚えている分、心が痛い。
慌てて顔を背けながら、くじけた心を立て直そうと心の中で何度も首を横に振るう。痛いけれど、彼らはアイドル。卒業間近とはいえ大切な先輩たちだ。プロデューサーとして投げ出すわけにもいかないじゃない。頑張れ私。ドッキリの可能性も大いにあるぞ!私!
なんとか自分を奮い立たして顔を上げると、深く長い溜息が聞こえた。そして『お気に召さない』を顔いっぱいに浮かべた『彼』はゆっくりと立ち上がる。部屋に響く棺桶の軋む音が、この奇妙な出来事を煽るように演出めいて響いてみせる。一歩一歩彼がこちらに近づくたびに、床を叩く革靴の音がやけに大きく聞こえた。
大きな風が吹き、カーテンが勢い良く跳ね上がる。夕日に照らされた朔間先輩は瞳に獰猛な炎を宿して、私を見下ろした。普段見慣れないその雰囲気に息を飲んで、ただただ視線を返す。風に遊ばれる彼の襟足が、まるで生き物のようにうねりをあげた。
猛獣と対面した時はどうすればいいか、アドニスくんに聞いておけばよかった。息を飲む私の腕を彼は掴んで、じろりと睨み、見下ろした。そのあまりの威圧感に羽風先輩のメールを開いたことを猛烈に後悔した。後悔しながら、頭の中で『興奮させないでいかにこの場から逃げ出すか』のシュミレートを叩いてみる。が、どう考えても無理難題。武器もなにもない、腕もつかまれている。おまけに足もすくんで動かないとなると、もはや黙って餌食になるしか道はなさそうだ。
「大丈夫だ、とって食わねえからよ」
ぎゅっと目をつぶっていたら、存外優しい声でそう言うので「本当ですか?」と私は目を開き彼を見上げた。朔間先輩は首を縦に振って手を離して「ふうん」と一言呟くと、そのまま顔を背けて棺桶の方に歩いて行ってしまった。
その背中があまりに寂しそうなものだから、いつも先輩を繋ぎ止めるようにブレザーの裾を握ってしまった。つんのめる感覚に彼は振り向き、不思議そうに私と、引っ張られていたブレザーを交互に見つめる。クスクスと笑う羽風先輩が「そういう子です」と言った。朔間先輩は羽風先輩を見て、そしてもう一度私を見て「ふうん」と、今度は興味の孕んだつぶやきを漏らした。
いたたまれなくて手を離したら、彼は手招きをしてみせる。恐る恐る近寄れば、強引に肩を組まれ引き寄せられてしまった。
ふわり、と懐かしい香りがした。朔間先輩の香りだ。でもこの、朔間先輩の皮を被った朔間零は、あの優しい眼光ではなく、呆れたような視線をこちらに投げて「危機感のない奴」と鼻で笑った。
「どっから湧いて出たのかしんねえけど、男の園に入り込むには危なくね?」
「……呼ばれたから、来ただけです。用が済んだのなら帰ります」
「わー待って待って!プロデューサーがいなくなったら困るというか、この状態で帰られるのが一番困るから、ね、とりあえず朔間さんその子離してあげて!」
「あ?嫌か?これ」
紅の瞳が私を見下ろす。懐に入ってしまえば不思議ともう怖い気持ちはなくて、でも口では肯定の言葉を吐きたくないからブレザーの裾をぎゅっと握った。「ほれみろ」と彼が笑う。その無邪気な笑顔に一瞬朔間先輩が重なって、私は二度、目を瞬かせた。