蹴り飛ばしたガラスの靴_09

 予想通り、夜が近くなるにつれて空は陰り、退社時刻が迫るにつれてぽつりぽつりと雨が降ってきた。小雨かなと思っていたのにどんどん勢力を増した雨粒は、午後十一時半を回る頃にはびたんびたんと大きな音を立てながらアスファルトに降り注いでいた。
 街のいたるところに水たまり。吹き付ける風もまた強い。嵐だ、と眉間を抑えれば会社前にタクシーが滑り込んだ。どうやら有志を募ってタクシーで帰る面々がいるらしい。時間も時間ですし一緒にどうですか?と同僚に誘われたが、書類や電子器具を持って帰る日でもなかったのでーーなによりタクシーの深夜料金は手痛いーー丁重にそれを断って、えいや、と外に出る。
 ぼすぼすぼす、とおおよそ可愛くない音が傘の中に反響する。普段響くヒールの音をもかき消すその轟音に一つため息。風に振られて思い切り足に吹き付ける雨風にもう一つため息。これは駅に着くまでにびしょ濡れになってそうだと、私はいつもよりも早歩きで街を駆けた。

 まだ春になって間もないこの季節でも、終電も近いこの時間ともなると初々しい若者たちの姿はほとんどない。憔悴しきった顔をしたスーツの群れに倣うように駅へと足を進める。春なのに冬の名残の冷たい風が突然吹き抜ける。
 雨も手伝ってか、やたらと寒い。ぶるりと身を震わせて早く駅に入ろうと足を早める。が、なかなか前の集団が遅く思うように速度が出せない。でも追い抜くような隙間もないし。悶々とした気持ちを抱えて歩いていたら、突然何かに引っ張られる感覚に陥り、その場にこけてしまった。

「いった……あ?!」

 眼下には溝にはまった靴。そしてポキリと折れたヒール。水たまりの中に思い切り倒れ込んでしまったせいで全身がずぶ濡れだ。どうしようと、とりあえず立ち上がり溝から靴を引っ張り出すが、とてもじゃないけどはけたものではない。
 最低だ。なんたってこんな。

 通りがかりの人々の視線が痛くて逃げるように建物の陰に隠れた私はしげしげと靴を見つめる。ふうん折れる時ってこういう風に折れるんだ。と冷静に分析する自分と、でもこんな時間に靴の修理屋何てやってないし、とうなだれる自分が心の中で交差する。そんなことよりもまずこの状態で電車になんて乗れないし。一張羅ではなかったものの衣替えしたばかりのタイミングでこれは正直、堪える。
 ぼそりと「晃牙くん」とつぶやいてみる。当たり前だけれど彼がきてくれるわけもなく、調子のいい自分のその言葉に、思わず嘲笑が溢れる。

 そんな矢先携帯がぶるりと震えた。なんだと見てみればアドニスくんがどこかの居酒屋だろうか、楽しそうに酒を飲むメンバーの写真を送ってきた。追撃するように一言『飲んでる』とメッセージ。見たらわかりますけど。八つ当たりのような怒りが心の中にふっと湧いてくる。が、なんとかそれを沈めて携帯を切ればまた、震える着信。大神くんからだ。しかも、電話。しばらく迷った後で電話に出れば、随分と騒がしい声が聞こえる。上機嫌なのはお酒を飲んでいるからだろうか。電話の向こうから私の名前を呼ぶ先輩たちの声が聞こえる。
 何してたんだよ、とか、仕事中だったか?とか当たり障りのない晃牙くんの質問に答えながら私はぐずりと鼻を鳴らした。泣いているわけではない、べらぼうに寒いのだ。先ほどから鼻水が止まらないが、ポケットに入っているハンカチはどうやら先ほどこけた時に浸水してしまったらしい。

 耳敏い晃牙くんは先ほどまで上機嫌だった声から一変、潜むような真剣な声色で「なんかあったのか」と口にした。

「別段何かあったわけでもないけど」
「けどなんだよ」
「ヒール、折れて」

 ぐずりともう一度鼻をすする。泣いてるわけではないことを伝えようとする前に彼は「どこにいる」と怒ったような口調で言った。「帰れるから大丈夫です」と伝えても「いいから場所」と言葉を尖らせる。その態度に観念して住所を伝えれば乱暴に電話は切られた。来るのだろうか。それってちょっとまずくない?撮ってくれと言わんばかりの大通りだよ?ここ。

 なんとか帰れないかと折れたヒールの靴を履いてみれば、左右のアンバランスに思わず壁に手をつく。つま先立ちをしてみようと立ってみれば、努力むなしくヒールのない方のかかとがすとんと地面に落ちる。どうしようもなさそうだ。残念ながら。

 終電がそろそろ過ぎそうだからか、人通りはだんだんとまばらになってきた。寒いな、と両手で肩を抱けば携帯が再び震える。メッセージアプリの通知をタップすれば、羽風先輩からの「撮られないでね?」とのメッセージと気の抜けたスタンプが表示された。「冗談になってないです」とだけ返信をして雨降りしきる街並みを見つめる。退社当時のバケツをひっくり返したような勢いは治まったけれど、しかりと降りしきる雨に、長丁場になりそうだなとぼんやりと見つめる。

 折角鎮火したのに私のせいでぶり返したらどうしようだとか、こんなボロボロな姿見られるのが恥ずかしいだとか、ネガティブな思考がぐるぐると頭をかける。会いたくない。なんとかして帰りたい。近くのコンビニに靴は売ってなかったっけ。スリッパだけか。でも折れたヒールや裸足よりもずっとずっとマシかもしれない。

 人気がまばらになったことを確認して私は建物の陰から這い出る。ここから少し通りけど最寄りのコンビニまで走ろう。踵を返した瞬間にまるで引き止めるように震える携帯。恐る恐る開くと、晃牙くんから近くの公園の名前と、そこで待っている旨を知らせるメッセージが届いていた。なるほどあそこなら確かに人通りは少ない。でもコンビニと正反対だし。コンビニに寄ったら到着が随分遅くなっちゃうし。
 ああもう!知らない!
 私はまた振り返ると公園に向かって歩き出した。まるで怪我した足をかばうようにヒールの折れた足に力を入れないようになんとか歩く。ここからコンビニはそう遠くない。ずぶ濡れは非常に格好悪いけど、とりあえず向かおう。

 公園の入口の脇にタクシーは止まっていた。ざっと見たところ人気はない。このタクシーがきっとそうだろうと足を踏み出して、私はそのまま歩みを止めた。
 コンビニ近くのお店のガラスに、どろどろの私の姿が映る。全身ずぶ濡れで、ヒールは壊れていて、顔も険しくて。まさかこんな姿で会うつもり?そういえばヒールの件は伝えたけどずぶ濡れのことは伝えてなかったよね?
 縫い付けられたようにその場に立ち尽くしてしまった私に、急かすように携帯が震えた。見れるような気分じゃなくて、もうこのまま立ち去ってしまいたくて一歩、後方に足を踏み出す。
 この場所ならまだきっと晃牙くんも気がついてないはず、後で謝りのメールを送ろうともう一歩後ずされば、突然タクシーのドアが開いた。晃牙くんは傘をさして迷いなくこちらに歩いてくる。あ、これは気がつかれてたわ。慌てて逃げようと折れていたヒールを忘れてうっかり左足に力を入れれば、変なところに力を入れてしまったみたいでその場にすっ転んでしまった。
 この大雨でほとんどが水たまり。またしてもびしょ濡れになってしまった私を呆れて晃牙くんは「……お前な」と言葉を吐く。もう顔もみれなくて、立ち上がる気力もなくて俯いていると、彼は手を差し出した。なかなか手を取らない私に彼は腕を無理やり掴んで立ち上がらせると、強引に腕を引いて歩き出した。ぽろりと、その場に折れた靴が脱げてしまう。あっ、と思ったが言い辛くてどんどん小さくなる靴をただただ見つめる。前をみれば強引な大きな背中が見えた。きているものは変わってはいるものの、慣れ親しんだ姿につん、と鼻先が痛くなる。

 ずぶ濡れの私をタクシーの運転手さんは一瞥して、しかし何も言わずにドアを閉めた。晃牙くんはおそらく彼の住所であろう場所を運転手さんに告げて、バックからタオルを取り出して私に突き出した。

「拭いとけ……靴大丈夫かよ」
「さっき落とした」
「はあ?!なんでそれを早く……」

 ぼろぼろとなぜか涙が溢れてきて、体も拭わずタオルで顔を覆う。悲しいやら、懐かしいやら、情けないやら、一言で言い表せられない感情を一律で涙は洗い流してくれた。
 晃牙くんは言葉を続けることなく、頭に手をあてがうと、優しく撫でてくれた。


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